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5年間縋ってきた本:国内文学編

卒業がほぼ(?)確定したので、最近大学生活を振り返ることが多くなった。卒業を控えた今となってはぼんやりといい学生時代だったな〜と生ぬるい感想しかでてこないが、ここまでの5年間しんどかった時期を乗り越え、あるいはやり過ごすにあたって何冊かの読み慣れた本に縋ってきた。鬱転すると文字が追えなくなるので、大学や就活先の会社で限界が来る度に同じ本を何度も開いて息の吸い方を思い出していたような気がする。今よりも鬱が酷かった時期の話なのでこのまま墓場に持って行ってもいいのだが、どうせならインターネットに放流して誰かの目に留めてもらったほうが本懐だとも思ったので、墓標としてここに残しておく。


村上龍『限りなく透明に近いブルー』(1976)


ODやリスカに勤しむサブカルメンヘラ達がこぞって「《真理》が視える」などと持て囃すせいですっかり病んだイメージが定着してしまった感がある本だが、10代のうちに読めて良かったと感じる1冊だ。18か19の頃病み過ぎて3ヶ月くらいベッドから動けなくなった時に繰り返し読んでいた。どうして病んでいたのかはもう思い出せない。家族とも交際せず、友達も作らず(作れず)、SNSで鬱を垂れ流す元気もなく、天井ばかり見上げていた。この作品は米国と日本の関係性とか、若者のドラッグ問題とか、1970年代の退廃した空気とか色んな切り口で語れるが、私が大学にもいかずベッドの上で一日中夢想していたのはその巧みな人物描写ばかりだった。恋人に執着しながらもDVをやめられず、仲間より年長なのにそのジャンキーさ故に舐められるヨシヤマのどうしようもなさ、恵まれた容姿を余すことなくモデル業や黒人との性交渉に費やしながらも本格的にヤバくなると火遊びといわんばかりに米軍ハウスから遠ざかるモコの立ち回りの上手さ、リュウと2人の場面でしか出てこないリリーの醸し出す静謐さ。もうしばらく手に取っていないが、今でも何か現実世界でトラブルや葛藤に直面した時「彼らならどうするだろう?」と想像せずにはいられない。金原ひとみがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』について「人生に行きづまった時などに、客観的に考える引き出しになる本。」と述べていたインタビューを読んだことがあるが、私も同じような感覚で『限りなく…』を読んでいる。(社会人になろうという段階で若者の乱痴気騒ぎにヒントを得ようとするのが恥ずかしいことであるという自覚はある。)ドラッグやセックスなど退廃的要素だけを掬い上げて語られることが多いが、むしろそうしたカオスを突き詰めた先にある何者でもない自分の哀しさを私は好む。夜通し飲み会に興じた後の明け方、寒い往来を身を縮こめて歩いた時の感覚を思い出す。


高野悦子『二十歳の原点』(1971)

大学2年になると打って変わって出歩くことが増えた。世の自粛ムードに反抗するかのように何日も飲み歩いて家に帰らない日が続きだんだん現実味を帯びてくる就活から逃げるように「20歳とはかくあるべし」みたいな著名人の自分語りを漁ってはピンと来なくて図書館の隅で途方に暮れていた。この本は1969年に鉄道に飛び込んで自ら命を絶った女子大学生の手記だとどこかで聞いて「20歳の間に読まなきゃ…!!」と焦って手に取った。学生運動や恋愛の挫折、孤独感を綴ったもので何かこう内容に深く共感したり心動かされることはなかったが、同年代で希死念慮を持て余している青少年のサンプルに飢えていたのだと思う。後に参加した外◯合宿で知ることになる『青春の墓標』『狼煙』『査問』等の新左翼運動に取材した作品の筆頭格であったと言えるだろう。まだだめライフなどの運動もなかった時代で、私のようなゆるふわ左翼はSEALDsにも『セッちゃん』にもあまり共感できないままなんとな〜く鬱を持て余していた。好きな講義もあったし友達もいたが、主体的に何かを学んだり向上心を持つエネルギーが持てずに覚えたての酒に希死念慮を紛らした。ポール・ニザンの言葉を借りるなら、まさに

僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。

アデン・アラビア

みたいな感じで将来への漠然とした焦燥感やイラつきを押し殺して生きていた。これが60〜70年代でなくて本当に良かった。愚行は数知れずとも、若気の至りでよくわからん思想のために人生を投げ出さずに済んだだけでも儲け物だと思う。年齢を過度に理想化してしまうようなタイプの人間にとってこの手の本は(内容に共感するかはさておき)経験として読んでおいて損はないと思う。少なくとも「読むべきものを読まずに年を重ねた」みたいなコンプレックスからは多少解放される。全然関係ないけど、書店でバイトしてた頃にラグビー部の兄ちゃんがこの本を探しに来たことがあってギャップにビビった(しかもそこでは平積みという破格の待遇だった。)


金原ひとみ『パリの砂漠、東京の蜃気楼』(2021)

3年はずっと鬱だった。生活に対して何の不満もなかったにも関わらずベッドから起き上がれない日が続き、ゼミの最中にも堪らなくなって席を立つことが増えた。たくさんの思いやりや気遣いに尽く不義理を働いた。就活なんてものはないに等しく、インターンは遊び半分で行った葬儀会社だけという有様だった。説明会に出るのにスーツが着られなくてうずくまったまま1日が終わることも日常茶飯事だった。色々な人たちから叱咤とともに「君にはセンスがある」「才能があるんだから無駄にするんじゃない」と激励をいただいたが、何一つ応えられず、自らひとつひとつ居場所を壊していった。理由もわからないまま五感から入る情報全てが辛かった時、図書館で黒い背表紙に惹かれて手に取ったのがこのエッセイだった。高校の国語便覧で綿谷りさと並ぶ金原ひとみを見て「ギャルだな〜」と思う程度でどんな作風なのかも知らないまま数年が経っていたが、パソコンを前に無の表情でこちらを見つめる彼女が写ったモノクロ写真の表紙に「この本を読まずに死んだら後悔する」と直感した。そしてその直感は見事に当たり、その1年間いつでもどこでも持ち歩いて辛くなった時に開いては息の吸い方を教えてもらった。文中にも同じように辛い時いつでも開けるように本を持ち歩く女性が出てきて、私だけじゃないんだと安堵した記憶がある。

この砂漠のように灼かれた大地を裸足で飛び跳ねながら生き続けることに、人は何故耐えられるのだろう。爛れた足を癒す誰かの慈悲や愛情でさえもまた、誰かを傷つけるかもしれないというのに。

p72


 

倉橋由美子『聖少女』(1965)

気分の浮き沈みの激しい一年だった。当時掛け持ちしていたバイトの影響で昼夜逆転と(軽度だが)飲酒への依存がひどくなり、形ばかりは辛うじてやっていた就活を完全にやめた。就職先の決まった友人達と飲み歩いたり旅行に行ったり2、3年の鬱を振り払うかのように学生時代の思い出作りに勤しんだ。新潟と京都は今でも好きな街だ。卒論もテーマだけ決めて放置していた。ふらふらしていたこの一年で何か指針になるような小説はないか探していた時、何かで『聖少女』のヒロイン・未紀が22歳という設定を知って俄然興味が湧いた。倉橋由美子自体は大学に入ってすぐの頃『パルタイ』を読んでその不気味な薄暗さが性に合わないと感じて以来興味の対象から外れていたのだが、『聖少女』では性愛に対する冷たい眼差しが貫かれていて癖になってしまった。未紀が「神さまがいなければ罪も罰もありませんわ」と開き直って実父とのただならない関係にのめり込んでいく様はこの上なく耽美に描かれているにも関わらずどこか突き放した冷めた印象を与える。

浴室で鏡と対面。ものすごい顔。(略)顔の半分は獣で半分は聖女。充足と荒廃。左の眼が少し充血して、薔薇色の欲望の名残みたいに光っています。唇が荒れているのは、ゆうべキスしすぎたせい。これがはじめて男をあいした女のもつ型どおりの顔らしい。笑ってみました。罪を犯したあたしと和解するためのおまじないの微笑。

p20

桜庭一樹のあとがきも良かった。一度でも恋愛に狂ったことがある人間にとってこれほどのパンチラインもないのではないか。

性愛とは、人をたちまち弱者にしてしまう、とても残酷なものだと思う。他人を愛してしまった人の姿は、まるで生まれたてのように弱く、儚い。

p294



三島由紀夫『鏡子の家』(1959)

ここにきて三島由紀夫かよ、と鼻で笑われそうだが大真面目に書いている。『午後の曳航』や『美しい星』も甲乙つけ難いほど好きな作品なのだが、敢えて学生時代の締めくくりとして1番相応しいものを挙げた。余談だが、三島由紀夫は父がこの上なく愛する作家で私はなんとなく逆張りとして太宰治ばかり読んできたのだが、ここにきてようやく三島の良さが少しだけわかった気がする。とはいえ、父の好きな作品は『絹と明察』『沈める滝』『春の雪』らへんなので相変わらず嗜好は全く違うのだが…。
私生活では留年はしたが、バイトを早朝の肉体労働に変えて躁転した勢いで就活も卒論も駆け抜けた。鳥取、青森、台湾にも旅行した。加速と譲れない美学(といわせて頂く)に任せて交通機関や美術展の学割を享受し学食の¥380円のミニカレー丼を貪り、好きな人たちと会いまくった。長編を読むには時間がかかるので、移動中いつも持ち歩いていたらぼろぼろになってしまったためブックカバーの有り難みを痛感した。物語を要約すると鼻持ちならない資産家の美女1人と美男子4人がそれぞれのやり方で青春時代の決着をつけるというただそれだけなのだが、三島の文章を読むと善悪以前の美によって思想信条を征服されている感があるので妙に説得力を感じてしまう。

もし人間の肉体が芸術作品だと仮定しても、時間に蝕まれて衰退してゆく傾向を阻止することはできないだろう。そこでもしこの過程が成り立つとすれば、最上の条件の時における自殺だけが、それを衰退から救うだろう。

p277

読後感を一言で表すと『限りなく透明に近いブルー』で入った迷路の出口をようやく見つけた気分になった。70年代の退廃を50年代のニヒリズムによって克服するというとよくわからない感じだが、ともかく、卒業を控えた時期に総括として読むには最適と言えるだろう。最後に締めとして、物語末尾の一節を置いて終わりとする。


青年は何と誇張が好きだろう!地球を握ったつもりで、一塊の土くれを握って死ぬのだ。

p548





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