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こんばんは!
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ひげ茶🇮🇳←🇫🇯←🇯🇵(@Zack688998376)さん / X (twitter.com)

私が住んでいるチェンナイという都市は、11月から2月は気温が下がり比較的過ごしやすい。
ここ数か月はクーラーも使用しなくていいほどだ。
3月からは、酷暑が待っているので、我が家の猫ちゃんたちも、酷暑への準備のためか、絶賛換毛期である。
そのため、ベッドが毛だらけで、休みの日は毛の掃除で一日が終わってしまうのが、最近の小さな悩み。
この寝顔を見れば、それも吹き飛ぶが。。。。

ということで、今回は、フィジー留学後編。
まだ前編ご覧なっていない方は、下記からぜひ。
それでは、後編スタート。


クラス分けテスト:

無事、学校に到着した。
まずはクラス分けのテストがあるため、ホールに集まった。
簡単なオリエンテーション後に筆記と会話テストが行われた。
定期的に昇進テストがあるようで、今後勉強をしていけば、さらに上のレベルに挑戦することも可能とのこと。
結果はその日のうちに張り出され、会話は自信があったのだが、筆記があまりうまくいかず、結果は7つのクラス中、上から4番目のクラス。
翌日以降のクラスが決まった。
学校は、実に多様な人達がいて、活気に満ちていた。
「グランプリの賞金で来たミスコンの大学生」、「会社を辞めワーキングホリデー挑戦のために来た元高校教師」、「兵役上がりの韓国人」などなど。
普通に生活していたらまず会うことができない人達に出会えて、気分が上がった初日。

事件:

そこから2~3週間、私は学校の通常の授業とは別にTOEIC対策授業も取っており、忙しい毎日を過ごしていた。
家に帰っても、勉強を行っていただけあって、着実に成果が出てきて、すぐに1つ上のクラスに上がることができた。
授業は主に、ディスカッションで、生徒に会話をさせ、自主性を尊重するスタイル。
特にディベートが楽しみで、ディベートになるといつも調子が上がった。
そんなある日の夕食、ホストファミリーから自分たちの親戚に会いに、一緒に首都のスバに行かないかと提案があった。
その国の文化にじっくりの漬かりたいと思っていたので、またとない機会だと思い、二つ返事で了解した。

それから数日後、仕事のお父さんを除いた家族4人で、バスに乗ってスバに向かった。
バスで5時間近くかけて、首都に到着し、そこからタクシーをチャーターし、親戚の家に向かった。
着いてびっくり、家というより、プレハブ小屋のような感じで、しかもほかの建物をの関係で、ずっと日陰で、家の中には小さな豆電球が一つあるだけだ。
家の中入ると、下に敷かれた毛布が、湿気を吸って、少し濡れている。
てっきり首都に住んでいる家族なので、豪華な家を期待したが、愕然とする。
気持ちを切り替え、その日は家族と映画館やネットカフェに行き、それなりに楽しんで、就寝。
異変に気付いたのは次の日の朝だ。
猛烈なかゆみで、朝起きた。
腕から背中にかけて、ダニに食われたような跡があった。
後々ナンディーの自宅に戻って、医者に行き分かるのだが、トコジラミに食われていた。
その日は、痒すぎて何もできず、バスで自宅に戻った。

実は題名の「事件」はこのトコジラミのことではない。
この後、ホストマザーからこの旅行の請求があった。
バスやレストランなどにも行ってその際は、彼女に建て替えてもらっていたので、払った。
ある日銀行でお金を下ろそうとしたときに、滞在1か月なのに、すでに銀行に入れていた額のほとんどがなくなっていて、これまでの支出を計算してみた。
そうすると、この旅行で使ったお金が突出して高かった。
そのことを語学学校に相談すると、3日の旅行でこの額は異常で、どれくらい高いかというと、フィジー人の平均年収の3~4か月分に匹敵する額だった。
通貨の計算もろくにせずに払ってしまったおり、支払いの段階で確認をしなかった自分が完全に悪いのだが、お金がなくてはこの後生活ができないので、自分が払った額の詳細を出してもらうように、ホストファミリーに要求。
手書きのメモを受けったのだが、どう計算しても、自分が払った額に合わず、ホストファミリーに強い不安を感じ、返金とホストファミリーの変更を語学学校に依頼した。
この時に語学学校は親身に相談に乗ってくれ、お金はもとに戻り、ホストファミリーは変更されることになった。
ホストファザーはこのことを知らず、このことがコミュニティに知れ渡ったら大変だということで、全額返金をしてくれた。
ホストマザーの中には、自分の親戚に映画やネットカフェなどに連れて行ってあげ、少しでもいい思いをさせたかったのかもしれない。
ただやはり、海外で生活するものとして、命の次に大事なお金を確認もしっかりせずに支払ってしまったという意味では、繰り返しになるが、私が悪い。
ここで伝えたいことは、外国人として生きるということは、自国民であれば受けられる当然の権利がないアウトサイダーになるということなので、お金にはいつも以上にシビアになったほうがいいということだ。

新しいホストファミリー:

新しいホストファミリーはインド系だった。
家族構成はお母さんと息子の2人暮らしで、息子は国際便のパイロットのため、あまり家に帰って来ない。
息子や友達とはヒンディー語で話し、家にはヒンドゥー教の仏壇があり、インドの影響を色濃く感じる家だった。
想像がつくかもしれないが、家では毎日カレーだ。
厳密にはカレーではなく、スパイスの炒め物なのだが、1週間の食事が、だいたい決まっているので、少し食事はきつかった。
しかし学校から500メートルほどしか離れていないので、通学のしやすさは格段に良くなった。
ホストマザーといろいろなことを話した。
「彼女がいつかインドに行って、本物のサリーを買いたいこと」、「息子が結婚し家を離れてしまうことへの不安」、「先立たれた夫への愛」など。
彼女は学校側でも非常に評価の高いファミリーとして登録されており、多くの生徒を受け入れてきたためか、最初のファミリーほど、心理的な距離は詰めてこず、あくまでゲストとして接してくれた。

前のファミリーもそうであり、彼女と接していて気づいたのだが、私が出会ったフィジー人は、同じ民族としか関わりを持たない。
食べるものも、信じる宗教も、話す言葉も、人種も異なり、インド系・フィジー系のコミュニティの交流がほとんどない。
そして、それについて話すと決まって彼らは、「あの人たち(それぞれの民族)とは話さないほうがいい」と言っていた。
インドでも感じることだが、全く異なるコミュニティーがその社会に入ってきた場合、社会全体として、そのコミュニティを本当の意味で「混ぜる」ことはできるのだろうか、と疑問に思ってしまう。
近年、ヨーロッパを中心に起こっているイスラムフォビア(イスラム恐怖症)などはその典型例で、特定のコミュニティに対して、そこ土地に長く住む者たちは異物と認識してしまう。
少し話がずれたが、とにかくホストファミリーは変更され、第二のホストファミリー生活は特に問題なく進んでいった。

帰国の日:

帰国の日が、だんだんと近づいてきた。
3か月もすると、多くの友達ができ、学校後にレストランに行ったりし、人生について語り合った。
多くはオーストラリアにワーキングホリデーに行き、もしかしたら今後は二度会わないかもしれない人たちだった。
カバもよく飲んだ。
カバとは、カバ植物の根から作られ、フィジーの伝統的な飲み物だ。
味は正直泥水のような味だが、飲んでいると不思議とリラックスしてくる。
学校では毎週のように、人が入れ替わり、ここで知り合った多くの友を、空港で見送った。

そしてついに自分の帰国の日となった。
クラスは結局、3番目になってから上がることができずにいたが、TOEICの過去問の点数は日に日に上がっていき、確かな手ごたえを感じていた。
多くの友達に見送られる中、7月に日本へ帰国。
事前にバイトで貯めたお金はそんなになかったので、島に頻繁に旅行に行ったりすることはできなかったが、この4か月で確かに自分が変わったのを実感した。
高校受験から逃げ、自暴自棄になっていた時に出会った、「フィジー」への留学。
薄っぺらいかもしれないが、そこであった人から学んだのは、人生は別に悲観する必要はないし、好きに生きればいいということだった。
高校生からずっと感じていた決められたルートを外れることの恐怖は、徐々になくなっていた。
その後、受けたTOIECでスコアは695が取得でき、自分に自信がつき、お金をためて、海外の大学への正規留学を夢見るようになる。
新聞配達のバイトをはじめ、住み込みで働くようになった。

ということで、後編はかなり駆け足になってしまったが、フィジー留学後編は終了だ。

みなさんの留学経験やフィジー留学の疑問などあれば、コメント欄にコメントお願いします。

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