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今夏の乃木坂46について:内へ閉じ行くユートピア

「好きというのはロックだぜ!」というこれまでの夏曲を煮詰めて濾して捨てる筈の部分をお出ししたような曲をもって開幕した2022年の夏の乃木坂46。ツアーを重ねる度に披露される新曲も聞いたことのあるフレーズの継ぎ接ぎで成り立つ曲(「僕が手を叩く方へ」「バンドエイド剝がすような恋をした」)であったり、メンバーのストーリーを補完するような中身が無い曲(「JJF」、「Under's Love」)であったりと正直パッとしないものばかりである。

そんなクリエイティブを引っ提げた上で進む乃木坂のツアー。わたしは名古屋公演1日目と神宮1日目を実際に足を運び、神宮3日目をリピート配信で見た。一言で感想を述べると全編に渡って''熱狂と空虚さが綱引きをしている''という印象。

名古屋公演1日目はその「空虚さ」が熱狂に勝った。というか生み出される「熱狂」、あるいは曲披露で生まれる躁状態がMCや演出でどんどん削がれていく状態。点と点で美しい部分は確かにあるのに、背景にあるトロピカルな装飾が集中力を奪う。キャンプファイヤーも室内だと奇妙なオブジェ以上の意味を持たないように映った。セットリストも消化不良のままライブが終わり、嫌な方の茫然自失状態のまま知らない名古屋の街をフラフラとしていた。このまま乃木坂への興味がゆっくりと失われていくのだろう…といううっすらとした予感と共に深夜バスで帰った。

そして8/29、乃木坂という存在に対しての思いがフェードアウトしていくような予感を抱えながら神宮球場で向かったが、まず結果だけ言うと、空虚さを熱狂が上回った。そして、その熱狂を支えていたものが乃木坂46というグループの異様なまでの「内向き」さだという実感を得た。

 その内向きさについて少し。乃木坂46はいつからか外部への訴求を止めた。相次ぐ卒業メンバーとそれに合わせた卒業シングルの連発、そこで起きるメンバー同士の関係性を愛でる空間は何も知らない外部のリスナーには理解し得ないものだろう。そしてファンはその欠員に誰が入るのかに注目し、そこから新しい物語を読み取ろうと必死になる。パフォーマンスの質や見栄えは一旦脇に置き、徹底して「ひと」を軸としてキャラバンが進んでいった。シングルのMVは「このメンバーは卒業を控えている」「このメンバーは新しく入った」というコンテクストを前提としたものとなった。
 勿論私もその「物語の読み取りに必死になった」1人である。メンバーがブログやスピーチで繰り返す言葉を軸に、ときに楽曲やMVといったクリエイティブを二の次に乃木坂というグループを応援してきた自覚がある。つまり、私はどこまでも内に内に視線の交差が紡がれていく光景に対して乃木坂の真髄を見出してきた。
 また、その内向きの視点は徐々に「乃木坂」という場所を唯一の居場所として守ろうとする3期生と4期生、異様なまでの包容力を持つ「乃木坂」に11人の群体として救われた5期生に伝わることとなる。卒業したメンバーからの引き継ぎの物語も一旦終えた今、「乃木坂」という共同幻想を頼りに(ファンも含め)結束しているのが現在の乃木坂46である。

 以上の内向きさが最も表れていたのが神宮公演において象徴的な演出として据えられていたキャンプファイヤーを囲みメンバーが歌う一連の流れである。上記の「乃木坂という共同幻想」がセンターステージでごうごうと燃え盛る灯火として表現されていた。私が参加した神宮1日目では新4期生として初の神宮の舞台だ、という旨のステートメントを発した上で林瑠奈がセンターで「孤独な青空」を披露していた。とにかく素晴らしかった。かつて乃木坂のライブで見られた人生と歌詞がマッチする導入、そこからアコギと声だけで場を掌握していく数十秒にアイドルとはこうして羽を広げていくのだな…という感慨を得た。「隣人への愛」から「ここにいない誰かの生の希求」へと曲の持つ意味を拡大した「Sing Out!!」 がその後に披露されたことも含め、乃木坂の過去と現在と未来をメンバーとファンが囲うというあまりに美しい図式が出来上がっていた。
 キャンプファイアーを用いた演出は日本ガイシホールでも味わっていたのだが、神宮という舞台装置がこの火の美しさを引き立てていた。メンバーが「聖地」「聖地」と口にする度に過去の神宮におけるライブの景色を瞼に浮かべつつ「今」この場に居合わせた事実に震えるし、秋に変わりつつある時期の夜風が火を揺らす様は見ていて幻想的だ。日比谷野外音楽堂に近い日常と非日常の溶け合い方にはこの場を聖地に仕立て上げた歴史の確かさを伺うことができるし、ここでもやはり「乃木坂の歴史」という内向きの補助線が機能している。

 神宮公演で追加された期別の曲披露、ブログに合わせてレア曲を演舞するシャッフルコーナーも個人的に好きな曲がチョイスされていたので満足感はあった。夏曲が連続して披露も一種の「祭り」として十分なものであった。何より名古屋公演に比べるとリズムもテンポもよく、メインステージの目にうるさいセットも夜の闇に溶け込み電飾のみが目に入りストレスが少ない。徹底的に減点を避けなんとかキャンプファイアーコーナーに繋げたという印象。メンバーを心配したくなるほど焚かれたUSJの「バッグドラフト」を彷彿させる花火特効演出が行われた「Actually…」はメタ的な視点も付随していて好きだった。卒業した過去のメンバーを思わせる曲披露を避けて「今」の乃木坂をもって成り立たせようという気概は讃えるべき、という認識。

以上が神宮公演に参加した感想である。すなわち乃木坂の持つ内へ向いた視点をの美しさを「キャンプファイアーをメンバーが囲う」という演出でもって昇華させた約十分間に囚われてしまった。あの他者の介在を許さないユートピアと云える景色は私の求める「乃木坂性」の可視化だった。

とはいえ配信で見るとこのライブは完璧とは言えないことが割とストレートに分かってしまった。やはりセットリストの不完全燃焼さは明らかで、盛り上げる箇所と聞かせる箇所の往復が頻繁に行われすぎることや「インフルエンサー」「シンクロニシティ」「日常」などの重要曲を削り山場が生まれていないことなどパッと改善点が浮かんでしまう。

つまり、「神宮」という空間の魔力、あるいは蓄積された文脈をもってでしか熱狂を生み出すことができていないのである。これはいちアーティストとして非常に危うく、単純に「ふらっと乃木坂を好きになる」という事例が生まれにくくなっている。キャンプファイヤーの演出を代表するメンバーとファンの内側への眼差しが交差して生まれる景色が美しいのは確かだが、やがて火は消えるようにこの美しさはきっと永遠ではない。いちファンとしてできることは少ないが、全てのもととなる楽曲のクオリティに落胆する事例が今回のシングルで最後になることを願う。次は「君に叱られた」ではない楽曲で花火に照らされる賀喜遥香さんを見たい。


最後に、わたしが神宮公演で目を奪われてしまったメンバーを発表します。川﨑桜さんです。動きにキレがあるのにソフトというか、エッジがないのにクールというか、不思議な二面性がパフォーマンスに表れていてつい目で追ってしまう。以上です。

脳溶

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