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ふりかけをかける自由

 どうにもこうにも暇である。
 正確に言うとやるべきことはたんまりあるので暇ではない。単にやる気が出ないのである。

 先日、自宅に後輩二人が遊びに来た。彼らは伝統ある雑誌編集部に所属する編集者で、いまをときめく芸能人の撮影やインタビューをして日々仕事をしている。私のようにぐうたら寝て起き、ダンボールに埋もれながら発送作業をしている人間とは見ている世界が違うようだ。
 差し入れの気の利いたワインを飲んでいると、
「野口さん、最近は何をしているんですか」と無邪気に問われたので、
「今日は郵便局に行って、本を買って帰ってきたの」
というなんとも地味な答えに「すっかり引退したばばあだな」という諦めの視線を感じた。感じはするが、別にそれ以上は何も言わない。
 私は余生を過ごしているつもりはない。なんならいつでもギラギラで、雑誌編集者を見ると「紙の情報誌なんてやって、将来どうするのだろう」と心の中で彼らを哀れんですらいる。烏滸がましくも私のしていることこそが崇高だと思うが、おそらくみな自分の仕事に誇りをもっているだろうから、仕事を比較するのも野暮な話だ。
 しかしご存知の通り紙の雑誌は斜陽産業である。WEBで情報が取れる時代のなかで、週刊誌、月刊誌の役割はなんであろうか。どんなに変革を叫んでも組織の体質はたいして変わらない。変わろうともしていない。WEBへの移行はプライドが邪魔をしてうまくいかない。新たな切り口を見つけるべく雑誌にしかできないことを日々探しているが、考えれば考えるほど雑誌にしかできないことなどほとんどなく、なかなか未来が見通せないのが切ない。
 書籍のほうは、もう少しだけ緩やかだと思っている。出版関係者からしたら「いやいや厳しいだろう」と思われるかもしれないが、私がひとりで作る本の初版部数は大手出版社とたいして変わらない。もちろん一人であれもこれもやるのは大変だが、一冊の本の売り上げだけを見れば、大勢の人を食わせていかなければならない大手に比べると利益率は高い。大手出版社のようにバカ売れしているコミックにおんぶにだっこはできないが、その恩恵に気づかずにふんぞりかえっている大手の編集者を見ると、なんとも哀れなものだと思う。
 と、イケイケの後輩に隠居老人扱いを受けながらも、一人で気楽にやっていて、やる気が出なければこうやって文章にしてストレス発散をする生活をしているのだが、アウトプットが年に数回しかないものだから日々の生活が見えないらしい。別に見えなくてもいいのではないかとも思う。どうせ噂話のネタにされるだけだ。ああ、いやだいやだ。しかしこうして少しはnoteに書いこうとは思う。


 私がさっき食べた昼食は、納豆とネギと卵をぐちゃぐちゃに混ぜて豆腐そうめんにかけるという「NO映えメシ」である。朝と昼の間、10時半くらいに冷蔵庫から食材を出してただ混ぜるだけ。今晩は友人とご飯を食べる約束をしているから、それまでは面倒だから何も食べない。夜には日本酒を大量に飲むだろう。何をしても誰からも咎められない。自由だ。

 今日のニュースで「給食に自宅から持参したふりかけをかけることが問題になっている」というニュースがあった。

 「給食のためにふりかけを持ってくるなんて、なんて柔軟な発想なのだ!」と、ゴリゴリに真面目だった私からすると羨ましい。しかしこうしてニュースになるほどの問題行為だという。
 生徒は「ふりかけがあることでご飯を残さず食べられるからフードロスにもつながる」と言う。それに反対する大人は「ふりかけをかけると塩分が数%上がってしまう。計算されたカロリーがあるからそれに則ってほしい」と言う。まあ食中毒が発生した際に責任の所在が曖昧になるから避けたいと言う考えもあるだろう。いろいろ考え抜かれた栄養バランス抜群の給食なら私も食べたいし、成長期の栄養は重要だから大人の意見はもっともだろう。しかし記事を見れば発案者は生徒だという。放っておけばそのうち焼きたらこや梅干しなんかを持参する生徒も出てくるかもしれない。なるほど、どこかで規制は必要かもしれないが、ふりかけを容認することでフードロスがなくなるならいいじゃないかとも思うし、なにより生徒の発想が素晴らしいではないか。
 背中を丸めてぐちゃぐちゃのメシを食べながら、伊藤野枝の本を開いて、アナキズムがどう、奴隷根性がどう、などと考え耽っていたから、ふりかけ論争をする小学校の様子を見ると、なんと長閑なことだろうと感じてしまう。時代が違うとはいえ、自由を勝ち取ることに年齢や性別の制限はない。生徒諸君にはぜひ自由を勝ち取るために、ふりかけを容認してもらえるよう立ち上がってほしいものである。

 ちなみに私が十代のころに通った女子校は厳しい校風で、地毛検査、眉毛検査、スカートの丈検査があった。時代はルーズソックス、黒ギャル真っ只中。放課後、最寄駅に先生が張っていて、違反者がいると通称“護送車”で学校に送り返される。浄土宗の学校だから、罰として放課後に写経や木魚を叩くハメになる(いま思うと、いろいろな経験ができるよい学校だ)。
 私は時代に抗い黒タイツで年中地味に通していたが、いかんせん地毛が茶色く「地毛証明書」なるものを提出しなければならなかった。
「髪が茶色いのは生まれつきです」
と親が生徒手帳に一筆書いて、ハンコを押して提出すると学校印が押されて認証される。あいにく私は母が他界していて、父は私の教育に興味がなかったこともあり、しかたなく自分で生徒手帳にそれっぽく書いて提出した。学校からは特に指摘されることもなく、すんなり了承された。
「え、いいんですか、これで」と、私は大いに疑問に思った。私の地毛がどうこうではなく、必要なのはそのステップで、しかもそれが正しいかどうかすら確かめもしない。万が一、私がグレて茶髪にしても、これが免罪符となり、やりたい放題ではないか。
 私は早々にこの形式的なルールに嫌気がさしていたが、私の勇敢な友人は立ち上がり「眉毛の加工は女性としてのエチケットである」と訴え、眉毛検査を廃止に追い込んでいた。もしかしたら「生まれつきこういう眉の形なんです」といえば大人を騙せたかもしれないが、制度自体をひっくり返した彼女の働きはすごいなと思った。

 理不尽には立ち上がれ、と思う。小賢しい私はつい抜け道を探してしまうから、社会に目を向けて立ち上がれる人を尊敬する。


 もっと自社書籍の宣伝めいたnoteの投稿もしていく予定だが、暇と退屈を持て余して、文章を書いたので、いつものようにメモ帳に寝かさずに公開することとした。こんなことを書いていると、少しだけ気分が紛れる。土曜日だがこのあとは打ち合わせだ。よく文章を推敲していなくて恐縮だが、まあ日記だと思って。夜は酒を飲む。今回は以上。


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