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中華料理とお節介 

  食にまつわるエッセイを読むのが好きだ。向田邦子は旅先の市場でいつも「さつま揚げ」を買う話、石牟礼道子、平松洋子、ウー・ウェン……。我が家の本棚は食エッセイだらけだ。異国の旅エッセイにも現地の料理がたくさん描かれていて、まだ見ぬカタカナ料理に思いを馳せるのが楽しい。

 もちろん食べるのも大好きだ。先週末は自由が丘にできたばかりの立ち食い中華料理店に行き、「ふむふむ、やはり中華料理は火力だな」などと利いた風な口を叩きながら九年ものの紹興酒を熱燗でぐびぐび飲んだ。赤が眩しい麻婆豆腐、パクチー&ピータンの白和え……。「うまいっ!」と唸りながら食べまくった。休日の真昼間に真っ赤な顔で帰ってきて、ソファで夕方まで爆睡していた。美味しいものを食べ、美味しい酒を飲む。最高の休日だ。

 読むのも食べることも好きなものだから、もちろん、食に関するうんちくも相当溜まっている。それなら自分で料理をすればよいと思われるかもしれないが、なぜか自分が食卓に立つと、意識がどこかに飛んでいってしまい、毎回、冗談かと思うくらい不味い料理ができあがる。不思議だ。いろいろ技があるのも知っている。しかし自分でフライパンを持つと、その技がまったく活かされない。
 例えば昨日の昼飯。「キムチ鍋のもと」を鍋に入れ、水を入れ、白菜、長ネギ、豚肉、とき卵を入れる。最後にごま油をひとかけ。不味くなる要素は、おそらくない(はずだ)。キムチとごま油なんて最高のマリアージュだろう。しかし出来上がったものは、なんともいえない水白菜汁。味のしない豚肉。奥行きを感じさせないスープ。鮮やかな卵の黄色に悲哀すら感じる。濃い味が苦手だから水が多すぎたのか、何を足せばマシな味になるのかもさっぱり分からず、適当に塩を足してさらに悪化する。勿体無いから全部食べるが、どうしてこんなに味が不味くなるのかが本当にわからない。「そんな大袈裟なことを言って。と言っても、まあまあ食べられる味なんでしょう」と思うかもしれないが、本当に、本当に、神に誓って不味いのだ。
 冷静に考えると理由はいろいろある。まずは私が極端にせっかちだということ。沸騰を待てない。何かを事前に準備することも嫌い。どうせ混ぜるなら一気に混ぜればいいと思っている。レシピは見るが、一度ざっと見てわかった気になる。たくさん美味しい料理を食べてきたから味音痴というわけではないはずだ。そうなるとこれは性格の問題なのだ。理由がわかっているのであれば直せばよいと思うかもしれないが、性格を直すのはなかなか難しい。 

「餅は餅屋」という言葉があり、私は仕事でもよく多用する。意味は言わずもがな、餅は餅屋さんでつくられたものが一番美味しいということ。つまり「どんなものでもその分野の専門家が最も優秀である」という意味だ。料理はお店で食べるのが一番美味しい。だってその道のプロなんだから。
「デザインはデザイナーさんが一番です」
「イラストはイラストレーターさんに」
「文章はライターさんに」
「印刷は印刷所に」
と仕事を振り分けていると「おや、編集者はなんの仕事をしているの」と不安になることもあるが、「いやいや私が統括しているのだ」「私がいないと本が出ないのだ」などと自分を励ましたりする。とはいえ本当に編集者はロクでもないのだからせめてコミュニケーションを円滑に、取材現場ではスムーズに、スマートにこなしたいものである。

 中華料理をたんまり食べたあと、ほろ酔いで自由が丘の緑道にあるクレープ屋に並んでいた。客は私と少年のふたり。迷いながら食券でバナナチョコクレープのチケットを買う。私は赤ら顔を隠そうとマフラーで顔を覆って店員さんに食券を渡すと、横で先に並ぶ少年が食券を持ってもじもじしていた。食券システムが分からないのだろう。食券を渡そうにも背が足りない。私は見かねて、
「この子のほうが私より先です」
と言って少年の食券を店員さんに渡した。クレープは一枚一枚焼かれているから、順番は重要だ。少年は赤ら顔の中年女性からの突然のアシストに驚いたようで、何も言わずにプイッと横を向いてしまった。少年は無事クレープを受け取り、去っていった。そして私も順番通りクレープを受け取り、「礼などいらん。社会の歪みを正した! 私は良いことをした!」と自己満足に浸りながら帰宅した。しかし、もしかしたらいきなり現れた酔っ払い(私)は少年を怖がらせたのかもしれない。いやはや、申し訳ないことをした。

 なんだかお節介を焼いてしまう。自分ができること以上のことをしようとしてしまう。しかも気まぐれに。餅は餅屋なのだから余計なことをしないほうがいい、という考えもあるかもしれないが、私にはどうやら難しい。味が薄ければ塩を入れてしまう。困った少年がいれば声をかけてしまう。余計なことかもしれないが、少しだけはみ出すことが楽しいのだ。それが「余計なこと」だからこそ楽しいのだ。巻き込まれたほうはたまったもんじゃないし、不味い料理は不幸しか生まないが、そうやって余計なことばかりして生きてきた気がする。
 すべてがうまくいっているわけではない。いろいろなものが予期せぬほうに転がっていく。嬉しいこともあれば、酷い目に遭うこともある。まあそれはそれで楽しめる心の余裕があるうちは、まだまだ心の中は大丈夫だろう。


 食エッセイを書いてみようと書き始めたものの、食エッセイにならなかった。また毒にも薬にもならないものを書いてしまった。まあいいか。

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