見出し画像

その2 世界が逆転する時ー「ポーの一族」新シリーズ『春の夢』『秘密の花園』ー女たちは生きている。生きているのだ!

(その1から読んでもらえると幸いです)

2017年から再開されたポーの一族、新シリーズ『春の夢』『ユニコーン』『秘密の花園』で、とりわけ特徴的なのは、女性の描き方である。

これまで萩尾マンガの世界で、女である者は、大概殺されるか、消えてなくなるか、その扱いは、酷薄だった。エドガーの大事な妹、メリーベルは、オズワルドの十字架に焼かれ、エディスの姉、シャーロットは火事に焼かれ、ポーツネル夫人も砂粒になり。あるいは、『トーマの心臓』でエーリクの母親は事故死、オスカーの母親は夫に殺される。『イグアナの娘』は母が死ぬまで許せないし『残酷な神が支配する』母は息子を見捨て、やはり事故死する。

『この娘売ります!』『ケーキケーキケーキ』『3月うさぎが集団で』などなど女の子がハッピーな作品ももちろんあるけれど、萩尾作品の中では、むしろマイナーである。厳密に女主人公とみなせるのは『レッド星』くらいじゃないのか。あとは、『百億の昼と千億の夜』阿修羅王や『11人いる!』の両性具有フロルといったー女でないものーになってしまう。『王妃マルゴ』の顛末は、歴史に証明されている。

萩尾マンガの「女性性」との折り合いの悪さ、ことさら「母性」との相剋は多くの批評、評論に書かれている。だけれども、ここまで来るとただ単に「女が嫌い」なだけなのか?とすら思えてくるのだったが。

ここでもやはり、萩尾望都は、目を瞑っていたのではなかったか。

橋本治が言うように、萩尾望都の根底には、現実への深い信頼がある。自らの育った家庭で、母との関係に深い悩みと苦しみを抱えながら、しかし彼女は、一度たりとも険悪な母と育てられた家庭を否定しては、いない。

否定されるのは、いつだって母や父の期待に応えることのできない「ダメなわたし」だ。『一度きりの大泉の話』に顕著な、萩尾の発する過剰なまでの自己否定の論理は、他者にはなかなか実感するのは難しいように。

なぜ、そこまで自分を否定するのか。

橋本治に寄っていけば、だからそれは、彼女がそもそも現実を圧倒的に肯定しているからに、他ならない。

あらかじめ世界は、全肯定されている。揺るがず確固とした堅牢な現実を。あらかじめ否定された、小さな、ダメな自分は、何一つも変えられない。なんの力も持っていない。ダメなわたしだから。

もしも、そこから出発するのだとすれば。

萩尾望都が目を瞑る時ーマンガ家は、破壊神であり創造主である。描き出されるマンガ世界では、自分を否定する全てをぶっ壊し、憎い母(女)を殺し、彼方に追いやりー自由に夢を見る、金色の世界を紡ぎ出す。

その行為は、現実的には、誰一人も傷つけないままに、自分自身を守り通し生き延びる方法だ。自己を否定し続ける世界は、ありのままであり続けるのだから。

この大きすぎる<自己>と<現実>との距離感。あまりの振幅の激しさ、複雑さが、あるいは世界と自己との認識のズレーが、萩尾マンガの根底にあるのだとしたら。あの圧倒的な物語と虚構世界を構築せしめる能力が、なぜたった一人の女性に与えられているのか、納得することはできる。隙間やズレは、埋められなければならない、正しい形へ。圧倒的に正しいはずの現実と同じく。

そして、その圧倒的な虚構世界の構築ーもう一つの現実ーを作り出す物語の極点が『ポーの一族』なのである。

完全に否定された自己ー人間社会から取り残され、バンパネラ吸血鬼にされてしまった少年ーエドガー。永遠の時を彷徨う彼は、14歳の少年、男性だけれども男性ではないし、そして女性でもない。彼は、無性の何かだった。

しかし、2017年40年ぶりに蘇り描かれるエドガーは、もう自己否定された萩尾少女の無意識の投影ではなくなっている。人間は、バンパネラではない。時を経て生きていれば、どうであれ変容していく。マンガ家萩尾望都だって40年前の萩尾望都ではない。

『秘密の花園』に描かれる女性たち。良家の娘パトリシア。看護師のセス。あるいは『春の夢』でポーの一族に加えられるユダヤ人の娘、ブランカ。彼女らは殺されないし、消されない。物語の中で、生かされるだけでなく、あろうことか、言葉を発する。自らの。自らのための言葉を。

「女のくせに勉強したらナマイキになるぞ!」と、父親に否定されたセス。ーでもがんばりました。母も助けてくれて…勉強は苦手ですが、わたしは人間としてえー「自分実現」したいと思ってー それは「自己実現」の間違いだったが、そう自分で言葉にする。

アーサー・クエントン卿との恋を夢見たパトリシアは、悲しい偶然のすれ違いにより他の男と結婚する。「結婚したら妻は夫の所有物」と父に言われても彼女の中には、確固たる自己がある。苦しみ迷いながら現実を変える力はなく、アーサーとの恋は、「夢の言葉」でしか告げられなくとも。はっきりと自分の言葉を表すからこそ、現実の家へ、彼女が生きるべき家へ、帰ることができる。

萩尾マンガの中での、女性の立場の変換は、明らかだ。女たちは、金色の夢の中で、ぶっ壊されるのではなく、生き伸びるべき存在になったのだ。なんという転換!

ナチスに追いやられ、家族と引き離されたブランカは、エドガーとともに歌う「春の夢」を。そして固く決意するように、叫ぶ。。

あたし、今 怒っているの! 

こんな世界 大っきらい!


ついに、とうとう。世界は、逆転する。全肯定され、決して揺るがないはずの現実に向かって。全否定され無効化されていたーわたしーは、叫ぶ。

こんな世界、大っきらい!

さあまたここから、始められるのか。肯定されるべき、わたしたちの物語はー金色に輝く世界はー

もう一度、いや何度でも、諦めずに。


(文中敬称略)











 

この記事が参加している募集

マンガ感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?