見出し画像

本に愛される人になりたい(Extra) 拙著「中嶋雷太小編集第二集『現代幽霊譚』」

 手前味噌な話となり恐縮です。
 この7月、拙著「中嶋雷太小編集第二集『現代幽霊譚』」が発行となりましたので、今回はこの作品を書くにあたって諸々考えたことについて綴らせて頂きます。
 この「現代幽霊譚」には三つの小編を収めました。「コンビニ幽霊」、「ミライちゃんがいたあの日々」そして「守護霊松子の後始末」です。
 最初に構想を始めたのは「コンビニ幽霊」でした。2020年春。世の中は新型コロナ禍の大波が押し寄せ、明日が見えぬ日々が始まりました。慣れぬ春先のマスクをして原宿に出かけてみると、通りには車の姿はなく、いつも混雑していたあの竹下通りのお店は閉じられ人の姿はありませんでした。
 日々の報道では、PCR陽性者数を報じ続け、「とにかく外に出るべきではない」という主張が声高に叫ばれていました。誰も経験などないパンデミックに、誰もがピリピリとしていたように思います。漠然とした不安がパイ生地のように日々積み重ねられ、それをピン留めするように淡々とした数字がグサリとそのパイ生地を止めているような感じでした。ただ、PCR陽性者や死者の「数」に慣れてしまうと、一人一人の具体的な人生は膨大な「数」に埋もれていき、私たちはその「数」だけを認識するだけで、徐々に死に対して麻痺していったように思います。
 その麻痺する感覚に違和感を感じていたころ、なんとなくでしたが、「死」とは「生」から切り離された冷徹なものだっただろうかと考え始めていました。
 やがて、新型コロナ禍が落ち着きを見せてきた2022年初めごろ、ウクライナでの戦争が始まり、テレビ報道ではその惨事を日々私たちに届け始めました。やがて、戦死者数が伝えられるようになりましたが、そこにもまた冷徹な数字で作られた麻痺感覚が横たわっていました。
 京都に生まれた私にとり、「死」はそんなに冷徹な数字だけのものだっただろうかと考えると、「死」は私たちの日常生活のなかに抱えられたふくよかなものではなかったかと思い出していました。例えば、夏。7月1日からおよそ一カ月執り行われる祇園祭。その後、お盆があり、送り火があり、8月末の一週間ほどの間に、子供のためのお盆である地蔵盆が各町内で執り行われました。伝統的な民俗に取り込まれてきた、どこかふくよかで豊かな「死」が、そうした伝統行事にあったように思います。分かりやすいよう伝統行事を例にあげましたが、私たちの日常生活のなかには、様々な形の「死」が組み込まれていて、それも含めての「生」だったように思います。
 話は変わりますが、最近、「百鬼夜行絵巻」関連の本を読んでいます。年内には書き始めたい物語用の資料なのですが、その絵巻物に描かれた鬼たちを見ていると、明治近代化教育で植えつけられた「正邪」とか「正悪」といった二元論で切り離すことができないものを感じます。つまり、私たちの心の中にそうした鬼が大小住んでいる感じと言えば良いかもしれません。
 妖怪や幽霊などを、邪や悪の側に置き怖がって喜ぶのが今や主流ですが、そもそも妖怪や幽霊もまた私たちの生活に密接して存在していたのではないかと思っています。
 さて、この7月に発行され始めた拙書「現代幽霊譚」です。お読み頂ければと思うのですが、この三つの小編を通じて、私たちが長年抱え生きてきた「死」についての民俗の視線や感覚が伝わればと願っています。
 Amazon PODやその他主要デジタル・ストア13社で順次発売となりますので、ぜひお読みください。中嶋雷太

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?