アムス

知らないところを走る、その喜び

好きなものはたくさんある。

例えばチョコレートとか唐揚げとか。本とかバイクとか。人でもいいなら奥さんとか。でもそれらの多くは既に他の人も好きだったり、あるいは好きになるにしても、少々ハードルが高いものだったりする。

とにかく好きで、人に教えたくて、しかも同じように好きになってもらえそうなものって、一体何だろう。私はそこで、「旅先で走る」ことを紹介したい。

元々私は水泳は好きだったが、走ることが大嫌いだった。持久走なんてもっての他で、大学の体育の授業で1,500mを走らされた時には、いい感じに日焼けしやがった優男風の体育講師に真剣に殺意を覚えた。大体持久力なんて遠泳をしていればいいのである。何なら水中を歩くだけでも構わない。道具は最小限、浮力が掛かるので関節への負担も少ない。なのに何故わざわざ汗だくになって、部活よろしく外を走らなければいけないのか。

そんな私が一転走るようになったのは、離婚裁判をした時のことだ。

詳しい経緯は省くが、色々あって調停も不調に終り、仕方なく裁判で結論を出すことになった。最終的には和解で済んだので良かったのだが、とにかくこの国の裁判は時間が掛かる。始める時に弁護士さんから「1年以上は覚悟してください」と言われたが、本当に2年弱掛かったので驚いた。その間心の中では常に早くゴールに辿り着きたくて仕方がなかったのだが、それへのプロセスが遅々として進まないことは本当にもどかしい。このままでは頭がおかしくなる。そんな時にふと思いついたのが、マラソンだった。

42.195kmを完走するには、然るべき準備がいる。週に2、3回は走って足を作らなければならない。しかし準備さえすれば、自ずと結果はついてくる(はずだ)。この「準備をする」と「結果が出る」というプロセスに没頭することで、なかなかゴールが見えない裁判に翻弄される心の支えにしようと思ったのだ。

結果私は裁判と並行するような形で練習を続け、10km、15km、ハーフ、そしてフルマラソンと見事完走することとなった。

ところが人間欲深いもので、いざ何度か完走を果してしまうと、走ることに飽きてくる。しかし早朝や深夜のランニングは想像以上に気持ちがいいものだったので、この習慣はもうしばらく維持したい。そんな時に、これまたふと思いついたのが、出先で走ってみるということだった。

きっかけは雑誌でよくある「●●さんのバッグの中身拝見」みたいな記事だった。とあるスタイリストさんのステッカーベタベタのリモワの中身が紹介されていたのだが、例によってライカのM9とか、カポーティやモームあたりの文庫本とかと一緒に、薄汚いニューバランスのスニーカーがぐしゃっと置かれていた。曰く、

「仕事で行った先で時間があると、よく街を走ります。いい気分転換になります」

最初は穿った見方をしたものの、ふと我に返るとこれは自分向きだということに気付いた。普段走る時もたまにコースを変えると楽しい。旅先だったらいつもスニーカー履いてるし。やってみよか……。

最初は出張先の鹿児島で試してみた。明け方のまだ暗いうちに恐る恐る出てみたのだが、かなり楽しかった。知らない街の知らない道を、人通りの少ないうちから走るのだから、殆ど探検のような気分である。慣れてくると何となく周りの位置関係がわかってくる。そのうち明るくなってくると不安も薄れて、知らない道にもどんどん入っていくようになる。すると普段の街歩きでは絶対に入らないような民家の密集地や、古い飲み屋街みたいなところにまで迷い込んで、最終的にはまるで地元民にでもなったような気分で鹿児島の市街地を走り回ることになった。

そのまま1時間くらい好き勝手に走り回って、ホテルに戻ってきた時には、私の頭は「これはイケる!」という確信に満ちていた。

以来、私は旅行や出張でどこかに出掛ける度に、ランニングシューズを履き、走る用の最低限のウェアを持っていくようにしている。思えばこれまで色んなところを走ってきた。この前パリに行った時には、セーヌ河沿いを走っているうちにイエローベストのデモ隊と機動隊が対峙している場面に出くわし、慌てて別の方向へ逃げるようなこともあった。

一体何がこんなに楽しいのだろう。きっとその街の持つリズムのようなものが、体でわかるからだと思う。

それぞれの街には、それぞれの街のリズムがある。川と橋が多いとか、歩行者信号が青の時間が異様に短いとか。自転車がひっきりなしに通るとか。信号無視が当り前とか。そもそも右側通行だったり、路面電車が走っていたりするだけでも、道を歩いている時の感覚は日本とは全然違う。そしてその違和感を、私たちツーリストは「おっとっと」とか言いながら、何となくやり過ごして旅をしている。

それが街中をしばらく走ってみると、自分の体が何となくその街のリズムに馴染んでいくような感覚がある。これは走るということ自体が、呼吸とかペースとか、自身の持つ体のリズムに敏感にさせることも大きいのだと思う。そして街のリズムと自分のリズムが合ってきたなと感じる時、それはそれは嬉しく、充実した気持ちに襲われる。それは一言で言うと、「この街をモノにした」という感覚である。

自分の知らない素敵な街に行ってよく思うのは、ああこの街のことをもっと知りたいなあ、何ならしばらく住んでみたいなあということだ。それは叶わないことが殆どなのだが、しかしこの旅先で走るということを始めてから、その名残惜しさのようなものが幾分減った気がする。

何故ならその街のリズムを、私の体は知っている。私の体には、例えばパリやベルリンや、クラクフやシンガポールの街のリズムが、記憶として残っている。だから私はいつでも、その街のことを思い出しながら走れば、その街に生きることの片鱗を思い出すことができるからだ。

好きなものはたくさんある。しかし中でもここ数年の間に出会って、見事人生の大事な一部にまでなったのは、この「旅先で走る」ことだ。

***

「明日のライター」ゼミの嘉島唯さんの講義の課題として提出し、嘉島さんに直々に添削していただいたものを、せっかくなので載せておく。自分の好きなものを記事にして、他の人にも好きになってもらうという課題だったのだが、自分が何故それが好きなのか?を熱を保ちながら言語化することの難しさを思い知った。プロ仕様で赤を入れてくださった嘉島さんに感謝。

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