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小説「まなざし」

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交通事故で聴力を失った女性、瞳美と彼女と生きることを選んだ恋人の真名人。音のない世界で、彼女のまなざしは何を語ろうとしていたのか。 普通の恋人と同じように愛し、すれ違い、味わうこ… もっと読む
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まなざし(最終話) 伝えられる言葉

まなざし(最終話) 伝えられる言葉

土曜日の朝8:00、彼女が玄関から出ようとしていた。
今日はシフトで介護の仕事が入っているというので、彼女だけが仕事に行く。一ヶ月に数度、週末に仕事が入る彼女にとっては当たり前の日常だ。
「いってらっしゃい」
普段は7:30に家を出る俺の方が彼女に見送られているので、時々こうして彼女を見送れる日があることはいいことだ。
「いってきます」
いつものように手話で答えてくれる瞳美は、目元から微笑みを浮か

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まなざし(37) たった5文字

まなざし(37) たった5文字

「だ、い、じょーぶ、で、す」

誰がどう聞いても彼女の本来の声ではないと分かる声色だった。
けれど言葉を覚えたばかりの子供のようにゆっくりと放った言葉は、母の肩を震わせ、頭を上げさせるのには十分強力だった。

「瞳美ちゃん、あなた……」

言いたいことは分かった。
きっと母は「喋れるようになったのね」と続けたかったのだ。でも母さん、それは違うよ。瞳美は前から“喋れない”わけじゃない。今みたいな発声

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まなざし(36) だいじょうぶ

まなざし(36) だいじょうぶ

その週の日曜日、夜の時間に俺と瞳美は両親とのご飯に行くため、二人で電車に乗っていた。両親とは店で直接待ち合わせる予定だ。電車に乗ると言っても家からほど遠くない場所にあるご飯屋さんだったので、普段の会社での付き合いで飲みに行くようなものだった。
しかし、いつもの飲み会とは確かに違うもの。それは、俺たちの心の持ちようであることは言うまでもないだろう。

「瞳美、大丈夫か?」

電車から降りて店までの道

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まなざし(35) 迷わずに

まなざし(35) 迷わずに

看護婦さんに彼女の居場所を聞くと、俺が眠っていた病室のすぐそばにある部屋にいるらしかった。自分たちのいる病棟は軽度の患者が入院している棟であるため、瞳美も命に関わるような怪我をせずに済んだらしい。ただ、地震の衝撃で川の土手から落下した際に足首を捻挫していると聞いた。治療のため、しばらくは入院生活になるだろうとも。
しかし俺にとっては、彼女がこうして軽度の怪我で済んだというだけで十分だった。

「え

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まなざし(34) 愛情

まなざし(34) 愛情

「……と。真名人」

誰かが、俺を呼んでいる。
瞳美か……? そういえば瞳美、助かったんだっけ。きっと、助かったと信じている。

混濁する記憶の中で、重たいまぶたを上げて最初に目にしたのは、俺の顔を心配そうに覗き込む母の顔だった。

「母さん……?」

母は、目を覚ました俺を異星人でも見るかのように「まあ」と口に手を当てながらそこにいた。母の顔の背後に見える白い天井から、自分が今病院にいるのだと悟

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まなざし(33) 声

まなざし(33) 声

余計なことは何も考えられなかった。
ただ一刻も早く彼女を見つけ出したいという一心で玄関から飛び出し、走った。
外は先ほどまでの激しい揺れが嘘のように、沈んでいた。静まり返っていたというわけではない。誰かが誰かを呼ぶ声、行き場をなくした車のエンジン音、鳥たちがはためく翼の音、遠くから聞こえてくるサイレン。
決して静かとは言えない街は、でも確かに重く沈んでいた。

「これ……やばいな」

先ほどから目

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まなざし(32) 我が子へ

まなざし(32) 我が子へ

足元から崩れ落ちるんじゃないかというふらつきの中、必死に掴んだドアノブを離すことができなかった。

「なんだよっ、これ!」

経験がないわけではなかった。ただ言葉にしないだけで、地面と視界の揺れの大きさが事の重大さを物語っていた。
台所から、「きゃーっ」という悲鳴が聞こえてきた。父さんが、「テーブルの下に!」と張り上げる声も。
永遠に続くんじゃなかと感じられるほどの強烈な揺れに、真っ先に思い浮かん

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まなざし(31)揺れる視界

まなざし(31)揺れる視界

東向きの部屋に、朝の暖かな日差しが差し込んできた。いつも、朝日のまぶしさに目を覚ますのが日課だった。そのせいで、夏と冬では朝起きる時間が全然違う。冬になると、母親から毎日叩き起こされたものだ。

ああ、起きなきゃ。

自分の部屋の中で床に敷いたお布団からのっそりと起き上がる。昨日の夜、寝る時にふとベッドを見遣った。自分よりもとっくの昔に床についたであろう彼女は、背中をこちら側に向けていた。寝る時に

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まなざし(30) 暗闇の端と端

まなざし(30) 暗闇の端と端

彼のお父さんとお母さんと、その後も他愛のない話をした。
真名人くんは小さい頃、ドジで近所の川に落っこちたことがあること。
小学校の運動会のかけっこで、一番でテープを切る寸前に転んで二位になってしまったこと。
その時、子供ながらとても悔しそうにしていたこと。
真名人くんはどの話を聞いても、
「そんなことあったけー」
「覚えてない」
と知らないフリをしていたが、本当は照れ臭かったんだということを知って

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まなざし(29) 急転

まなざし(29) 急転

真名人くんの実家は、私たちの住んでいる街からおよそ1時間の場所にあった。先週遊びに行った桜川と同じくらい時間がかかるけれど、方向的には真逆。二週連続でちょっと遠くまで足を伸ばすのは久しぶりかもしれない。

この二週間で、とにかく私の人生は急転した。しかしこの感覚は初めてじゃなかった。

14歳のあの日、親友だった佐渡歌が突然この世から去ってしまったとき。
20歳の誕生日、交通事故に遭い、目が覚めた

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まなざし(28) 好きになってほしくて

まなざし(28) 好きになってほしくて

隣にいる彼女が、ぽかんと口を開けて目の前に差し出された婚約指輪を凝視していた。

結婚、という言葉を人生で初めてまともに使ったような気がする。
小学生の時、教室で仲の良い男女がいれば、
「お前ら結婚するんだろー?」
とからかった記憶がある。
高校ではバスケ部の同期の友人が、付き合っている彼女と「結婚したい」と惚気ていたのを聞いて、中島と一緒に「絶対今の女と結婚なんかしねーだろ」と呆れ気味にそいつを

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まなざし(27) 四角い包み

まなざし(27) 四角い包み

ゆったりと流れる川の上を、船は抵抗なく進んでゆく。波に揺られながら海を渡るのともまた違う。波のない穏やかな水面は、ただそこにいるだけでとても居心地が良かった。

「さあ皆さん、ここから約1時間、周りの景色や水上の居心地を楽しんでください」

船が動いている間ずっと、陽気な船頭さんが櫂で水をかきながら、船に乗っているお客さんたちに左右に見える景色の説明をしてくれた。
途中で背の低い橋が現れた時には、

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まなざし(26) 出発の日

まなざし(26) 出発の日

彼女と約束をした週末は、快晴とまではいかないけれど、雲の隙間から暖かな光が差す心地良い朝を迎えた。

うだるような8月の暑さをなんとか乗り切り9月も半ばまで過ぎたが、それでもやはりまだ日によって真夏と同じくらい汗をかく日がある。とりわけ仕事で歩いて営業活動をしなければならない日はなおさらだ。ひどい時は、得意先の玄関まで着いたところで10分間汗を乾かす時間を置かないと人前に出られないことがあるほどに

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まなざし(25) 4.7cm

まなざし(25) 4.7cm

「お客様、誕生日プレゼントか何かをお探しですか?」

ジュエリーショップには一度だけ足を運んだことがある。それこそ、瞳美の22歳の誕生日にはそこそこの値段のするネックレスをプレゼントした。
その時も、ショーケースに並ぶキラキラのアクセサリーを見て、たじろいだ記憶がある。知識ゼロの自分が彼女が満足してくれるようなプレゼントを選べるかどうか分からず、緊張していた。緊張しすぎて、何度も店に入っては出て、

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