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Chapter1 嘘か本当か分からない


 今週からは02、特集は「嘘」。

 嘘とサッカーなんてテーマで何を書いたら良いかと、自分で決めておきながら頭を悩ませていた。もちろん取り上げられる題材としては、すぐにフェイントやVARや思い当たるところはある。

 しかし、それらについてぐるぐると頭を回しているうちに、それってただの見かけ、表層にすぎないよなと思い当たった。

 何をもって「嘘」と言えるかは実に曖昧で、そもそもサッカーというゲーム自体虚構の世界の話であったことを思い出す。そうか、だから何を書いてもいいんだ。

 この自由さ、曖昧さというのは丸いボールのように、1つの側面から物事を見ているだけではその本質は何も分からない。サッカーという象徴的なものについて書こうと思うと、やはりサッカーだけでは足りないのだ。

 そして、「嘘」も同様に、ある点からは「本当」であり、それじゃあ僕はあなたは何を信じて生きていけばいいのだろう。それにはまず、常識的な尺度で嘘か本当かを見分けることをやめなければいけない。

 THINK OUTSIDE THE SYSTEM.

 そうなってくると、サッカーはさることながら、実は絶対だと思いこんでいた僕らの日常にまでその疑いは入ってくる。現実世界とは何かについて、「本物」の尺度が必要だ。何がないことで、あることなのか、それは見かけだけでは分からないのだ。


 フットボールの夢、はじまります。


ーー

 口に虚と書いて、嘘と読む。ないことを言う、口から出まかせ、嘘つきは誰からも信用されない。しかし、僕たちは人間に生まれて意識を持って営みをしている限りにおいては、どうしてもその嘘と手をつないで暮らさなければいけない。

 サルトルによるところでは、僕らが英雄を演じるのは、卑怯者だから。あれやこれや芝居をするのは、生まれつき嘘つきだからだという。

 友達の前では友達になり、親の前では子になり、時には男、女、学生、サッカー選手という役(ロール)を演じている。

 そうすると、何が自分にとって現実なのか、これを計り知るのは非常に難しくなってくる。見かけに惑わされてはいけない。

 ここに、作家のデヴィッド・フォスター・ウォレスがアメリカのケニオン大学の2005年の卒業式で行ったスピーチ(同年のスティーブ・ジョブズのものは有名だが、2010年のタイムス誌調べではこちらが全米1位に選ばれている)からの引用をしたい。


 2匹の若い魚が並んで泳いでいると、向こうからやって来た年上の魚に出くわす。年上の魚が彼らに軽く頭を下げて話しかけてくる。
「やあ諸君。水はどうだい?」
 しばらく通り過ぎてから、1匹がもう1匹の方を見やって言った。
「何のことだよ、水って。」(筆者訳)





 魚は自分たちが水の中を泳いでいるなんてことは思いもしない。現実とは何なのだと改めて考えさせられる話。

 しかし、そう、僕が言いたいのはつまり、いかにして現実というものをジャストサイズで取り出すのかということである。それは、ナイキショップで画面を、操作、操作、スニーカーを作るように簡単な話ではない。

 だからこそ、方法はいろいろ、皆それぞれに日々を切り取ろうとあくせくしているのである。水とは何だ。

 その方法にこそスタイルが表れるのだが、何事にも誠実で、潔白の身、ミスター東大くんにだってその答えは分からない。つまり、現実が何かを計り知るのに、世の中で正統と見なされるような尺度が当てはまるとは限らないのだ。例えば、常識と呼ばれるものも。

 そう、例えば、人間はないことも想像、イマジネーションで未来のことだってあーだこーだと言うことができる。その能力に秀でた者のうちには、SF作家という職業が用意されている。

 ないことばかり。演じて、夢を見て、嘘つきの支離滅裂!SF作家ほど現実主義者はいないと思うのだ。

 サッカー選手はそのお仲間、とんでもない空想野郎である。足なんか使って、自分の身体すらも騙して自然ではない動きをする。これは、よほど現実世界への挑戦なのである。

 とうとう現実を計り知るのに、手で道具を扱うだけではたどり着かないと見たのだ。それはもう、想像を超えるしかない。ボールを足で蹴る、どこへ向かっているのかも分からない。

 SF作家とサッカー選手の例が示すように、あること、ないことというのはその表層だけをすくい取っても何も分からないということなのだ。

 そう、それには空高く飛んでやって来たボールを、手ではなく足で収め、運ぼうとするように物事の視点を変えてみることが必要である。嘘も虚偽も見かけに過ぎず、そもそも実はそれこそ現実世界なのかもしれない。

 僕がサッカーについてあれやこれやと言語を並び立てるのは、それもまた本質に迫るための手段として有効だと考えるからである。サッカーについて文章を書き始めた時は、まさしくボールを初めて足で扱った時のその感覚に等しかった。

 習慣からの脱却である。日々を変えてみる。カーテンの色を選ぶように、髪型を変えるように。

 その小さな嘘は、透明な水を見るための新たな道具をあなたに与えてくれる。

 小さな嘘を繰り返し、慣れないことに挑み、不自然な動きをする。

 周りから浮いてしまうかも。

 人間は単純。慣れればそれすらも退屈に感じてしまうだろう。デビッド・リンチの映画にハマっていくのと同じだ。

 デビッド・フォスター・ウォレスのスピーチでも、「これは水だ」と繰り返し自分に問うことが大事だと言っている。物事の本質はとてもありきたりに僕たちの日常に紛れ込んでいるため、意識し続けなければそれに気づくのは困難なのだ。

 いつも違うやり方を探り、気づきを見落としてはいけない。

 そうすれば、夢も現実になる。

 ボールもサッカーボールになり、ピッチを走る。

 もしくは、ピッチから抜け出して、流れの穏やかな川の見える道を気兼ねなく歩き、友達と「あいつはタッチが雑だ」だのとサッカー選手の愚痴でもこぼし、笑い、春の訪れを感じる日曜の午後を、望んでいるかも。


ーー

 ようやく春が来た。

 僕たちもサッカーボールに騙されていたみたいだ。あの嘘つきめ。

 嘘は本当で、本当は嘘で、全く何が現実世界か分からなくなってくる。しかし、それにかまけて白い粉に依存してはいけないのだ。

 デビッド・フォスター・リンチのスピーチには続きがあって、自分の外に尺度を置くことがいかに安易で危険であるかということについて言及されている。お金を信仰すればそれはとどまることを知らず、権力を信仰すればどこまでいっても自分の小ささに怯えるのだ。そして、これらの最大の弊害は悪だとかいうことではなく、無意識であることだという。

 手前で思考停止せずに自分が本物と思える人生を歩むことが大事だと考えるのだ。

 それにしても嘘とサッカーは面白い。

 次回は、嘘にも種類があるという話。どうやって現実世界に立ち向かうか、その方法についてもう少し掘り下げているので何か感じ取っていただければ…。答えはいつもピッチにある。



前回記事はこちら。




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