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紫陽花の季節

「私はもともと、こんな季節嫌いなんです。蒸し暑いし、そのくせ夜は涼しいし。だから何を着れば分からなくて。湿気で髪はうねるし、うねった前髪は汗でおでこに貼り付くし。汗っかきだったから、臭いかなとか気にしなきゃいけなかったし。だから、私はこんな季節が大嫌いなんです」
そう言って彼女は、冷房のよく効いた駅前のカフェで恥ずかしそうに言った。
「誕生日が6月6日なんですよ。だからもう嫌で仕方ないです。自分の誕生日が嫌いな季節なのって、気分落ちませんか?」
自虐的に笑う彼女は表面を伝う水滴なんて何も気にせずグラスを握り、ほとんど残っていないコーヒーと氷をいっぺんに口に放り込む。ハムスターみたいに、頬袋に氷を詰めた彼女は頬をふっくらとさせながら、空中を見て何かを考えているようだった。
少しするとバリボリという音とともに頬袋は小さくなっていった。まるで空気を抜かれるビニールプールみたいな様子で徐々に小さくなって、そしてゴクリと喉が鳴る。
「ただ、紫陽花は好きなんですよ。なんでなのかは分からないんですけど。多分嫌いな季節だから少しでも好きな花くらいは見つけたかったのかもしれません。それに紫陽花は、私に汗もかかせないし、前髪がうねる原因にはなり得ませんから」
うっとりと、潤いを溜めた眼で空中を眺める。案外氷が知覚過敏の歯に沁みているだけかもしれない。
「それであなたの好きな季節は何ですか?」

まるで知らない世界から飛び出てきたかのように彼女は美しかった。すらりとした指先で魅せる仕草も、漆黒をたたえる長い髪も、ツンと上を向いたまつ毛も、吸い込まれそうな真ん丸の瞳も、薄くて形の良い唇も、シャープな顎も、くっきりとした眉も、優しく微笑むときのえくぼも。
全てが美しくて、そして時折顔を見せる可愛さがそこにあった。彫刻のような姿が、一瞬にしてコミカルなデフォルメ絵のように笑う。大きく可愛く笑って、小さく美しく微笑む。
そんな彼女を見かけたのは、ゴールデンウィークを過ぎたあたりだった。通い始めたばかりの大学のフランス語の授業で、隣の席の人と挨拶をしてみましょうという機会があった。
その授業に私は遅れて行った。暖かい日で、急いでいた私は教室に駆け込んだ。恥ずかしい気持ちと共に席を探すと、たまたま2人がけの席のうち1人分が空いていた。そのときの先客が彼女だった。
そのときも私を見て、小さく美しく微笑んでいた。
恥ずかしさからなかなか顔を見ることができなかったのを覚えている。
そして私はミスを重ねる。教科書を家に忘れるという高校生のようなミス。鞄をごそごそとしていたら、視線の端に綺麗に整えられた指先が見えた。スッという音とともに、教科書が二人の間に置かれた。
横を見ると、頬杖をついたまま彼女は眼を細めて私を見ながら微笑んでいた。
私は緊張しながらフランス語で挨拶をした。彼女の発音も私と似たようなものだったけれど、私よりは自信があるように聞こえた。
「じゃあ、今日挨拶した人が今後の授業におけるバディです」と先生は言って、教室を出て行った。
「こりゃ迂闊に休めませんな〜」と彼女は言った。その言葉選びと美しい彼女がどこかミスマッチで、私は笑った。彼女も私を見て笑った。

そして私たちは友達になった。友達になって、一緒に遊んだ。最初はお互い何故か敬語で話していて、それも時間が経って解消された。

ただ、私は彼女の質問に答えていなかった。
「それであなたの好きな季節は何ですか?」という質問に、私は答えられなかった。それまで好きな季節も嫌いな季節も無かった。ただその季節は、その温度で、その湿度で、その雨の降りやすさで、その風の渇きで、その陽の注ぎで、そしてただそこにあるものだった。
私は素直に、嫌いな季節がある彼女を羨ましいと思った。その感受性が羨ましかった。こんなに綺麗で、美しくて、可愛いのに嫌いなものすら持っている彼女が。
私には何もない、と思ってしまった。それでも私は卑屈にならなかった。
彼女にとってみれば私はスッポンだった。月は彼女。月の裏側は案外ボコボコだと聞いたことがあった。きっと彼女の季節への感情はそれに似たようなもので、だからその事実は彼女の美しさを更に高めた。
私は何だろうと思った。スッポンにも失礼にあたるかと思って、考え方を変えなければいけないと思った。彼女の微笑みを見ていたら、自動的にそう思った。

ある6月6日、彼女の誕生日も一緒にいた。大学で授業を受けて、学食でお昼ご飯をご馳走して、そして買い物に行こうと電車に乗った。横浜で買い物をして、その時にはまだ14時くらいだった。
「ねぇ、鎌倉まで行かない?」と彼女は突然言った。
「紫陽花が見たいの」という誘いにのって、2人で横須賀線に乗った。受講している講義の話やフランス語の話をする。フランス人講師の真似をする彼女を見て私はお腹が痛くなるくらい笑った。北鎌倉で降りて、そこからは歩いた。紫陽花が有名なお寺に着くと、平日だけど人がたくさんいた。たくさんすぎて入場制限が設けられていた。
「残念、独り占めならず」と言って彼女は小さく微笑み、そして踵を返した。
残念そうな笑い方も、儚げで綺麗だった。

そこから私たちは歩いて海を見に行った。天気はどんどん悪くなって、向かっている途中、むき出しの素肌に雨粒がポツリと当たったが、私たちは気にしないふりをした。遠くに海が見えて、それに向かって歩く。私たちはその間言葉数が少なかった。彼女が何を考えていたのかはわからない。嫌いな季節で、好きな紫陽花も道端のものしか見られなくて、雨に打たれていた彼女は何を考えていたのだろうか。
雨が強まるのと反比例するように私たちは砂浜に近付いていた。
ひたすらに歩いていた私たちはじっとりと汗をかいていた。横目で彼女を盗み見ると、相変わらず瞳は潤んでキラキラしていた。雨の中キラキラしている彼女の瞳は何でも映している気がした。シャボン玉の縁に光る何色とも言えない感情が彼女の瞳には備わっていた。それはいつも通りのことだったのに、何故か私はその瞳から目が離せなくなった。
海を見つめる彼女の瞳に、私は釘付けになって歩みを止めてしまった。そんな様子に彼女が気が付かないはずもなく、二、三歩進んで私を振り返った。
彼女の立つ場所は、階段を降りたら砂浜に足を踏み入れられるくらいの瀬戸際だった。
「……確かに靴脱がないと砂まみれになっちゃうね」と、私の考えていることと全く違うことを言って彼女は靴を脱ぎ、靴下を脱いだ。
すらっとした脚、くびれた足首、綺麗な足趾。
私は彼女の考えていることが私のものと全く違ったことや、裸足になった彼女の後ろ姿が予想通り美しすぎたことが何故か面白くなってしまい笑い出した。
笑いの止まらない私を見て、いつも真ん丸の瞳を更に丸くさせた彼女はつられるように笑い出した。
笑い出して、裸足のまま階段を降り、砂浜を走りだした。真っ黒な髪が視線の先で揺れて、それを遠くから眺めているのは勿体無いと思い、私も靴と靴下を脱いで走り出した。
雨はどんどん強まっていて、水面に当たる音が聞こえてくる。夏というにはまだ肌寒い中、私たちは砂浜を駆け回った。足首を海につけ、波が来ると逃げる。全身びしょ濡れなのに逃げ回る私を見て彼女は「今更じゃん!」って言って可愛く笑った。
どうでもいいやと思って、私は砂浜にお尻をつけて座った。もう全身びしょ濡れなんだから、今更スカートが濡れても、下着に染みても一緒だと思った。
そう思って座った瞬間、彼女も私をみて座ろうとしていた。
「もうここまできたら一緒じゃんね」と今度は美しく微笑んだ。

その日、私たちはびしょ濡れのまま家に帰った。電車に乗る時の居心地の悪さと冷房の風で2人揃って風邪を引いた。
寒気に震える指先で、「お誕生日おめでとう」と直接言っていなかった言葉を紡いで彼女に送った。
次の日、彼女からは「ありがと」と返信があった。そのまま2人してフランス語の授業を休んで「これならどっちも困らないね」って笑い合った。

そんな日が一緒続けば良いと思いながら、重い頭を枕に沈め、私は再び眠りの中に吸い込まれていった。


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ここまで書いて、私の指は止まった。彼女はもう居ない。彼女とは同じ大学にも行っていないし、なんなら直接会ったこともなかった。勿論フランス語の授業も一緒に受けていないし、横浜駅で買い物もしていない。横須賀線に乗ってもいなければ鎌倉にも行っていない。
本当なのは、6月6日が彼女の誕生日だということ。そんな彼女の誕生日に、彼女を想わないなんてことはできなくて、私の指が動いたというだけ。
まだ、彼女には会えない。もう、彼女は居ない。
だから、私は彼女の「それであなたの好きな季節は何ですか?」の質問に答えることができない。応えることができない。
ただ一つ言えるのは、私にとってかけがえのない季節だということ。私は紫陽花が好きで、彼女の誕生日が6月6日だから、私の好きな季節は今だということ。
彼女と同じく温度も湿度もうねる髪もおでこに貼り付く前髪も鬱陶しくて大嫌いだ。
大嫌いなのに、この季節を好きだと言えるのは、彼女と紫陽花のおかげ。

お誕生日おめでとう。
私は19歳になっちゃった。みっつも歳上になっちゃった。何も変わらないけど、何も変わらないからずっと私はこの季節になってあなたを想うことができる。

じゃあ、またね。


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