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次、停まります。①

 
 バスの停車ボタンを押すのには、すごく勇気が必要だ。電車ならば目的地に行くうえで乗り換えるのも簡単である。あらかじめ決められた駅は勝手に通り過ぎることはないし、絶対に何人かはホームに降りる。だから私も一緒になって降りればいい。満員電車で、「すみません」、なんて言いながら降りるこの申し訳なさについては、ちょっとここでは割愛する。ここでの問題は、バスである。押さなきゃいけないのだけれども、私の代わりに誰かがボタンを押してくれたらいいのに、と思う。

 私にとってはバスに揺られるということ自体、勇気が必要で、不安であった。電車のように一本の線でも、乗り換えの融通が利くわけでもなく、バスは道路を自由に走り回っているように見える。下にレールがあるわけでもなく動くものだから、目的地に着くのはわかっているのだけれども、自分は揺られることしかできないのでなんとも言えない不安がつきまとうのだ。別に運転手を信用していないわけでもない。ただただ、不安なのである。今日も不安の中、青と赤の錆びかけた塗装、ミニカーのような無機質な箱に乗るため、重い足をあげた。バスに乗り、私は押し付けられた仕事をこなすべく朝早く職場に向かうのである。

 バスの中での特等席は、一番後ろの右側の席と決めている。前側の席に座ると、誰かに見られているようで、居心地が悪いからだ。ここであれば、誰かからまなざしを向けられることもないし、私は視線に悩まされることなく、なんでも出来る自由な存在である気がする。それに、最後尾でみんなのつむじを見下ろす私は、なんだか宇宙戦艦の司令塔になったみたいだ。朝早いため乗客はそれほど多くなかったが、時間になったのでバスは発車音をならし、動き出した。発車した瞬間、走ってバスを追いかける若い男性が見えたが、バスは定刻通りに発車しなければいけないので、構わず発射した。後ろの窓から、息を切らしながら、発車するバスを見送る男性が見えた。……彼は、このバスじゃなきゃ、ダメだったんだろうに。

 バスは、遅すぎず、緩すぎず、適度なスピードで道路を進む。バスに揺られている間、何もする気になれず、これからの仕事のことをなるべく考えないようにと、静かに目を閉じ、うとうとし始めると思い出される。

 『いやあ、西本さんが仕事ができて助かるよ。これからも頑張ってね。』配属されてすぐは、この言葉を聞くたびに、達成感が得られたものだ。この言葉は、一音一音がドレミの旋律で、ガラス玉のようにキラキラと感じられていた。つらい時だって、その言葉は私を勇気付け、心の奥の灯火を揺らす風であった。しかし、年数が経てば経つほど、勇気の旋律は呪いの言葉に変化し、聞きなれたその言葉の裏に隠された暗号を読み解くことができるようになった。

『西本さんが仕事ができて助かるよ。あ、ついでにこれも!(いやな仕事全部引き受けてくれるから彼氏と飲みに行ける)』
『西本さん、ごめん、これ頼んでいい?この後外せない用事があって!(こいつはノーなんて言わない。笑顔で残ってくる)』             

———私は、ただのカモだった。

 バスは、信号が変わったためブレーキをかけた。 その弾みで乗客はみんな前にガクンと引っ張られる。後ろの座席は前よりも、振動が大きいので、最後尾の私も危うく、前の座席に突っ込んでいってしまうところだった。これだから、自分の力で制御できないことは、どうも苦手で不安にさせる。もっとも、免許のない私は自らのコントロールで目的地へ向かうこともできず、やはりバスに乗るしか道がないのであった。

 バスは、再びエンジンを動かし、走り出した。緩やかだがぐねぐねに曲がりくねった車道を、右へ左へと器用にバスは進んでいった。こういう時、運転手はプロだから彼に任せておいた方が安心だった。こんな道は運転することはできないので、何も考えず、運転手に身を任せて揺られるのであった。乗客は、まだまだ降りる様子はないみたいだ。

この時、ふと思った。

———無理に降りなくていいのではないか?

一人、また一人と乗客が降りていくのを遠目で観ながら、わたしは考えた。周りの期待を背負って頑張った結果、周りの踏み台となる。私は輝けない。
だからもう、やめた。



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