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「きらい」を知ると「好き」がわかる。生きやすくなる。

小学生のころ、「プロフィール帳」というものが流行っていた。バインダーにたくさんのプロフィールシートがはさまれていて、それを1枚ずつ配って書いてもらうというもの。自分でも配ったし、もらったのもたくさん書いた。でもいつも「裏面」に悩んだ。

名前。生年月日。血液型。星座。裏面にあるのは、そういう「決まっているもの」じゃない。

好きなアーティストとか、好きな食べ物とか、好きな本とか、趣味とか特技とか、自分自身について聞かれるものなのだ。そういうのがいつも思い浮かばなかった。

好きなものがはっきりあるって、かっこいい。

当時バレエを習っていて、そこで出会った4つ年上のおねえさんととても仲良くなった。私が小学校6年のときだから、彼女は高校1年生だっただろうか。プロフィール帳を書いてもらったら、裏面がびっしりと埋まっていて、なんだかきらきらして見えた。

好きなものがはっきりあるってかっこいい。そう感じた瞬間だった。

それからいろいろ模索してみるけれど、当時は今ほどネットで調べるのがかんたんではなかったから、好きなもの探しにはずいぶん難航した。別にきらいじゃないけれど、特にどきどきすることはない。そういうものを「好き(?)」と掲げていた。

ただ、ひとつだけ進歩したのは「かわいいもの」が好きだとわかったこと。「かわいい」の定義づけがいまいちできていなかったけれど、文房具や小物など、身の回りにおくものは「かわいいと思うか?」で揃えるようになっていった。

”キラキラOL”なんて微塵も考えてなかったのに

時は流れて社会人1年目の冬。

「なんかさー、キラキラOLに憧れてましたって感じだよね。ウケる。なんで備品使わないの~? 無料なんだからさ、こだわらなくたっていいじゃん。備品使いなよ」

隣の席の先輩の言葉に、ぴしゃりと水を打たれたようになった。にこにこしながら放つ言葉には、鋭い棘が見え隠れした。

帰りの電車でぼうっとしていると、目の前に座ったサラリーマンらしき人がぎょっとした顔でこちらを見ている。ほおが冷たい。勝手に涙が落ちていたことにも気づかなかった。

いろんな柄の、きれいな色のふせん。猫のイラストが書かれたボールペン。シャンデリア模様のマグカップ。全部、雑貨屋さんで見つけて、素敵だなと思って少しずつ買い集めたものだった。キラキラしたOLになるためだなんて微塵も考えたことがなかった。

好きなものが目の前にあるだけで落ち着くし、元気が出る。それだけの理由だった。

次の日、文房具はすべて一番下の引き出しの奥に押し込めた。無機質な備品を使い始めた。そして、今考えるとほんとうに情けないし、もったいないことだけれど、お気に入りの小物たちは、数ヵ月後、会社をやめたときにすべて捨てた。

「きらいフィルター」の効果

当時、心身ともにぼろぼろだったけれど、よかったこともある。その一つが「きらいフィルター」ができたことだった。

それまでの私は、ぼんやりとした「好きフィルター」で物事を判断していた。だから「なんとなく違うんだよな」という”違和感”を感じるときも、はっきりと言語化できずにいたのだった。

ささくれた気持ちになると、いろんなことに対して反抗的な気持ちになる。「これはキライ」「あれもキライ」「あの人はイヤ」。

一見すると、すごくネガティブだし、その状態がずーっと続いていたら、決してよくなかったと思う。でも、一時的にそういう「きらいフィルター」が発動したことで、無意識に消去法で選択するようになっていった。

「どうして私はこれがきらいなんだろう?」と、問いかけることができたから。そしてどんどんふるいにかけていくと、残ったものが「好き」なものだとわかるようになった。

きらいなものは避ける。好きなものは愛おしむ。

ファッションもメイクも、料理も、人も。自分の好きなものを知るには、最初に「きらいなもの」を知る必要があったのだと思う。

違和感をたぐると”好き”が浮き彫りになる

最初は「かわいい」ものが好きだった。かわいい要素があるものは、なんでも集めたくなった。たとえばアンティークなビーズランプと、いちごの形のポップなクッションと、ぬいぐるみが全部部屋にあり、統一感がなかった。

でも、”きらいフィルター”を通してみると「ピンクはピンクでも、ベビーピンクという感じではないな」「ポップなかわいさにはそんなに心惹かれない」「寒色は苦手かもしれない」というように、少しずつ候補が消えていった。

そうすると、お店に行ったときの選び方も変わる。前はたくさんあるものすべてをじっくり見て迷っていたのだけれど、一瞥して「ここは好みじゃないから見なくてもいいな」とすぐに答えが出る。

そして、きらいフィルターでふるい落とされなかったものを繋げてみていくと「好き」の共通点がわかる。たとえば雰囲気で言うなら、シャビーシックな感じが好きなのだと知った。色ならパステルカラーより少しだけくすんだ色。ピンクよりもライラックやラベンダー。ゴールドとシルバーならゴールド。

そんなふうに、細部が見えるようになった。そうしたら私の「好き」はみるみる具現化していった。

同じように、人との距離感もフィルターにかけることができた。「この人は傷つくことを口にする人だ」とか「この人は機嫌が悪いと八つ当たりされる」というのが見えてきた。

それまでは、相手がどんな人であっても「仲良くしよう(しなくちゃ)」と思っていた。それなのにうまくいかなかったり、苦手に思ったりする自分がいて、責めるような気持ちになってしまった。

でも、フィルターからふるい落とされた人との距離感を自分で決めたら、むだに傷つくことがなくなった。同時に、むだに相手をきらいになることもなくなった。苦手な相手でも、いいところも目につくようになった。

失礼にならない距離感で、挨拶はきちんとして、話しかけられたらきちんと返す。でも必要以上に自分のことをしゃべったり、弱いところを見せたりしない。自分なりの「苦手な人とのつきあい方ルール」ができた。

「きらいだ」って、思ったっていい。

きらいなものを「きらいだ」と言うこと。これって、すごく悪いことのような印象があった。でも、だれにも伝えずに、自分のこころの中でじっくり向き合って、自分で答えを出すのなら、だれにも迷惑はかけない。

好きなものだけアンテナに引っかかるようになったし、人との距離感が決まって悩みにくくなった。好きなものときらいなもの。どちらもわかったら、私はとても生きやすくなった。

ただ「きらいフィルター」も、そこから残る”好き”も、年齢とともにきっと変わってゆく。だから私はこれからも探し続けるのだと思う。

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