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論を憎んで個人を憎まず

 今回は最近のテレビやネットを眺めて感じたことを書いていきたいと思う。

罪を憎んで人を憎まず

 「罪を憎んで人を憎まず」とは『孔叢子』刑論にある孔子の言葉「古之聴訟者、悪其意、不悪其人(昔の裁判所では訴訟を取り裁くとき、罪人の心情は憎んだが人そのものは憎まなかったの意味)」から。「憎む」は「悪む」とも書く。

 この言葉をどこかで聞いたことがある人も多いと思う。中国の思想家孔子の言葉ともいわれているが、聖書にも似たニュアンスの言葉が存在するようだ。この思想は現代の罪を裁く場である裁判所にも息づいているように感じる。

爆発する感情

 近年のテレビ・ネットなどでは何か失敗してしまった人に対して、地獄の底に叩き落とさないと納得できないといわんばかりの過剰な反応がある。憶測や想像で「被害者のお気持ち」を語る人も体感として以前より増えた。法があり、それを犯した人間が裁かれるのは当然なこととしても、法を犯してはいない倫理上問題がある行為や気に入らない行為に対して、徒労を組んで突撃していく人たちも観測されるようになってきている。そのような人たちを海外では「Social justice warrior」(社会正義の戦士)などと茶化す動きもあるが、秀逸な表現だなと感心してしまった。
 感情が法を超えるがごとき主張を堂々と行う人達が増え、まるで法の上に感情があると言わんばかりのあるおかしな状況になっている。「憎む」ことが日常になってしまった社会では心穏やかにいることも難しい。危うい均衡の上に成り立っていた社会は、今バランスを崩そうとしているのかもしれない。

論を憎んで個人を憎まず

 ネットなどで議論が起こる時もお気持ちを中心に立ち回る人が増えてきた。ある思想に反対していたはずが、いつの間にかその思想を有する個人の粗探しをしている。思想の確からしさは二の次で「発信している個人が気に入らないから反対」などと真面目な顔で言い放つ人もよく見るようになった。
 相手の顔が見えないだけで人はここまで攻撃的になれるものなのだろうか。議論をするときは「論を攻撃しても相手の人格を攻撃してはならない」という考えは多くの人が共有しているものだと思っていただけに私が受けた衝撃は大きい。
 足元をすくって個人を叩き潰し空虚な勝利に酔う。その思想に至った背景を考え自分の人生を考える糧とした方がよほど有意義だと思うのだが、人間はそこまで冷静になれないらしい。

 狂気が社会を覆いつくそうとしている。その大きな波に飲み込まれないようにするには、地味ではあるが日々の内省が鍵になってくると思う。自分を省みることはそこまで難しくはない。少しずつやっていこう。ではまた次回。

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