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試合と製作

製作とは、たとえばスポーツの試合におけるような、相手(素材)と自分との駆け引きによって成り立つものだと思う。

一対一で向かい合うという構造がわかりやすいので、ここでは卓球やテニスのような競技における試合をイメージしながら考えてみる。
この場合、試合で選手が勝つために必要なことは、勝手気ままに自分の得意な球を打ち込むことではないだろう。ネットの向こうには同じように必死で自分を負かそうとする相手がいて、その相手を無視しては有効な球を打つことができない。
相手の裏をかくためには、相手をよく観る必要があり、タイミング(呼吸)をずらすということは、まずは相手の呼吸に自分を合わせることによって可能になる。

優れた試合とはまるで一つの舞のようだと聞いたことがある。
逆説的ではあるが、向かい合って球を打ち合う二人の選手は、相手に「息を合わせ」、相手の意図に「寄り添う」ことができてこそ、そこから生じてくる「調和」を崩し、相手を翻弄することが可能となるのではないだろうか。

ものを作ることもまた、このように相手に自らを添わせていくことであると思う。相手を自らの支配下に置くために、自らを相手に合わせて変えていくこと。
自らの意のままに木を削るためには、その木の特性に合わせて削り方を工夫しなければならない。扱おうとする木の木目や癖を無視しては、思い通りに削ることはかなわない。
思うまま気持ちよく削られていく木の感触に満足を覚える時、そこには同時に、思い通りにならない相手の木に自らを添わせていくという事態もまた起こっている。
自らの支配欲を満たす喜びだけではなく、相手への理解や相手との一体感というものもそこには生じている。
自らを相手に添わせていくということは、ある面から見れば相手に従うということである。そして相手に添い従うということの意味は、相手によって自らが変わっていくということである。
このようにして、自らが求めることを成し遂げるために自分とは異なる相手との関係に留まり、それによって今までの自己が変容させられていくということ、それこそは本来「学び」や「成長」とされるものであろう。
そうであるからこそ、そこにおいては「自己が相手に屈服する」というようなネガティブな感情が生じることはあまりない。むしろ変化していく新しい自身への喜びや満足といえるものがそこには確かに存在している。

このように考えてくると、いわゆる「素材に耳を澄ます」というような表現は、素材に純粋に従っていくというような献身の美徳的な姿で素朴に理解されるものではないことがわかる。それは素材を自らの思い通りにしようとする作り手の利己的な気持ちに裏打ちされているからこそ可能な態度なのである。
しかし、そのような作り手のエゴが素材の個性とぶつかる時、そのエゴ自体の変容を迫る形で素材からの声が聞こえてくる。
このような素材との駆け引きを通して作り手は素材との関わりを深めていき、そこから生じる学び/変容が、素材とのより深い関係を促していく。

相手を従わせるために自らも相手に従っていくということ。これは単に利己的でも利他的でもないような関係として、一般的な言葉ではうまく名指すのが難しいような事柄であると感じている。
二つのもののあいだの関係がどちらか一方に偏ることなく動的な平衡を保つ時、そこにはエゴと利他心、支配と屈従、喪失と学びなどという二項対立では表現できないような不思議な関係性が生じている。
もしも作り手と素材とがそのような関係を生み出しえたとしたら、そこにはおそらく「理想的な製作」というものが成立しているのだろうと思う。

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