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青木さんと僕【2ー二人の小説家】

(【1ー現場にて】から続く)

それからというもの、駅近くの同じ現場に派遣されることが多かったこともあり、時間を見付けては青木さんとよく話をするようになった。
話すきっかけとなったのは勿論「命の恩人だ!」と言われた僕の指導の一件からだが、「小説家を目指している」という青木さんに僕自身も小説家を目指していると話したことも大きかっただろう。
その時青木さんは、目を輝かせて「文通しましょう!」と笑った。

勿論、同じ現場と言ってもそれぞれ持ち場があるわけで、話せる時間はそれ程長くはない。しかしそれでも、仕事開始前終了後、昼休みなど時間を見付けて話をした。

ある日の仕事上がりのこと、現場の仮設トイレを掃除しているところに出くわした。驚いて「何してるんですか?そんなことしなくて良いのに」というと、青木さんは「いやーだって臭いし汚いし」と恥ずかしそうに笑っている。
仮設トイレは汚くて臭いもの、それを自ら掃除する人など見たことがない。
さらに聞くと、奥様が重病を患っていたが無事に回復して退院なさったそうで「神様のおかげだと思って何か社会奉仕がしたくて」と照れたように言った。
それからも青木さんは毎日トイレ掃除をした。

なぜ青木さんのような人が警備員のような仕事をしているのか? 
皆不思議に思うに違いない。
その理由の一つとしては、奥様の医療費の支払いがあった。
加えて、国立大学の大学院に進み修士を取得するのにお金が掛かったこと、さらには定年退職後にローンを組んで住宅を購入したことなどを教えてくれた。
奥様のご病気は兎も角として、修士取得と定年退職後に住宅を購入したというのも凄いが、さらには博士課程にも進みたいと言って笑っている。

青木さんには度々驚かされたが、もう一つ驚かされたこと言えば、青木さんの体力だ。
ある時、道路舗装に時間が掛かったせいで珍しく数時間の残業になったことがあった。
辺りはすっかり暗くなり、僕の背中はとっくの昔に丸まったきりだ(これは脊柱起立筋の筋持久力の問題だ)。
まだ若い僕に比べて青木さんはどんなに疲れているだろうかと心配に思って見てみると、青木さんの背筋はピンと伸びたまま。それどころか、当初より仕事に慣れてきたこともあり、動きもシャキシャキしていて、背を丸めダラダラとこなしている僕と比べると、遠目から見れば僕の方が歳を取って見えたかも知れない。

体力維持の秘訣について聞くと、青木さんは謙遜しながらも、それは五木寛之のエッセイで読んだ「ヒマラヤの塩」のお陰だと教えてくれた。
「五木寛之がヒマラヤで山登りをしたときに、現地のシェルパが塩の塊を舐めていたらしいです。なんでもミネラルがたっぷりで疲労回復に良いとかで、五木寛之もシェルパに貰って舐めてたらしいですよ。それで、うちの近所のお店でヒマラヤの塩が安く売ってるのを見付けたので、それを買って、疲れたときにちょこっとだけ舐めるんです」と得意そうに言ってから「そうだ山口さんには世話になったから塩をプレゼントしますよ!」と笑った。
それから数日後、青木さんは約束通り、ニコニコしながら僕に「ヒマラヤの塩」を買って持ってきてくれた。

ある時は、青木さんがその時書いていた作品の話をしてくれたことがあった。
タイトルは「ユンボ」。
ユンボとは、建設作業用のパワーショベルなどの重機のことだ。
「以前に、現場で国立大学の学生だったけど、人を殴ってしまって示談金を払うのが嫌で前科者になってしまって、大学を辞めたという若い子がいてね、『ああ、これは小説になるな』と思ってその子の話を題材にして書いているの」
青木さんにとってこの現場作業は必ずしも彼の望むものではなかったのだろうが、それでも、新奇な体験に興味を持ち、それをすぐさま小説にしているという貪欲さ、スピード感に目が眩む思いだった。

「山口さんは何か書いてる?」
と聞かれて、僕は「卒論とか大学関連で忙しくて」とか、そういう風にしか答えられなかったと思う。
それは勿論嘘ではなかった。
僕は卒論関連の様々と共に、地域の学生団体の会長を引き受けていたこともあり面倒が多かった。とはいえ、入学前には、学業と並行して小説も書くと決めていたのに、学業とアルバイトでその余裕はなく、趣味の読書の時間も取らずにアルバイトの昼休みにもテキストや参考文献以外は読まなくなった。

在学中に小説を書くなど無理だと思いつつも、時折「小説を書く時間を作る事は出来ないのか?」と自問したが、上手く答えを見つけることは出来なかった。
7年の在学中に、いつか書こうと幾つかのアイディアを思い付いて書き溜めはしたが、それだけだった。
随分と遅れてきた僕のモラトリアムの時間もそろそろ終わろうとしていた。

また、教師仲間とのドストエフスキー研究の話をしてくれたことは度々あったと記憶している。一度その仲間と一緒にモスクワかどこかのドストエフスキーの墓参りにも行ったそうだ。
僕は卒論が同じくロシアの文豪チェーホフの『桜の園』の演劇史(『桜の園』は革命直前に書かれた戯曲であり、革命後に「革命思想に相応しくない」と一度は排斥され、そしてその後「社会主義的リアリズム」作品として再解釈されて復活するという数奇な運命を辿っている)について書いたのでそのことをいうと「読ませて下さい!」と飛びつかんばかりだ。

名門校でも教えていた元高校国語教師の青木さんに自分の書き物を読ませるのは恥ずかしい気もしたが、自分の全てを出したと言える唯一の書き物で自信があったこともあり、すぐに承諾した。
そしてメールを通じて本文だけで7万字を超える論文をファイルで送ると、青木さんは僅か数日で読み終え、「いやー素晴らしかったよ!私ももう舌を巻いた!文章力あるねえ!!」と褒めてくれて「あんな怖いことがあったんやね〜演出家のメイエルホリドだっけ!?」と印象に残った内容を話してくれた(メイエルホリドはチェーホフの戯曲を世に知らしめた演出家スタニスラフスキーの弟子筋にあたる世界的な演出家で、革命後スターリン政権で『トロツキスト』だとされて粛正された)。
勿論嬉しかったし、ホッとした。
7年の学生生活、小説ではないが、やれるだけのことはやった、それを青木さんに認められて嬉しかった。

「青木さんはもしかしたら仕事に入れて貰えなくなるかもしれない」
そうした周囲の心配は、結局は杞憂に終わった。
真面目で素直な青木さんは仕事に慣れるのも早かったし、現場の皆に愛されているようだった。

青木さんと度々一緒に働いていた駅近くの現場が終わってしばらく経ち、別々の現場に入るようになった頃、お昼休憩を取っていると、青木さんが車で現場の詰所にやってきたことがある。
警備員の制服姿だ。
「青木さんじゃないですか。どうしたんですか!?」
声を掛けると「あれ、山口さん今日はここだったの!?」と喜んでくれて、「いやあこの現場にお弁当届けるように頼まれたんですよ」と言って笑っていた。
そして青木さんは弁当を届け、少し話した後「じゃあもう行くね、話せて良かった!」と手を振って車に乗り込んだ。

弁当を頼んでいた現場のリーダーが「青木さん知ってるの?」と聞いてきたので「はい、駅近くの現場で一緒してて仲良くなりました」と言うと、リーダーは青木さんについてにこやかな表情で「変わってるよね。元高校教師でしょ?」とか、そういう風に言ったと思う。
僕も「現場仕事には珍しい人ですよね。真面目で、とても可愛らしい」と返すと、リーダーは「青木さんはここの現場監督にガミガミとうるさく指導されるんだけど、監督は青木さんがいないといつも『青木さんは今日は来ないの?』って聞いて、来ないと分かると寂しそうにしてるんだよ。愛されてるんだよね」と言って笑った。

そういえば、会社に給料を貰いに会社に行った時に、専務が僕に「青木さんと仲が良いんでしょ?今度一緒に講演会に行くって聞いたよ」と尋ねてきたこともあった。
僕は当時地域の慶友会という組織の会長をしており、講師派遣行事にお世話になった独文教授の粂川先生の招聘することを決めていた。
「青木さんって面白いよねえ」
専務が続ける。
「元々は高校の先生なんでしょ?この前、本を整理しなければならないと言って持ってきてくれたんだけどさ、ドストエフスキーの著作とか段ボール箱いっぱいで。こんなに読めないよって思ったけどさ」
困ったような口ぶりながら、笑顔で話している。青木さんについて話す時は、皆そうだった。
きっと僕もそうだったのだろう。

講師派遣行事に独文の粂川先生を呼ぶ、それは僕が福岡慶友会の会長になったときからの念願だった。
粂川教授は学部を卒業後にボクシングライターになり(僕も書かせて貰ったことのある『ワールドボクシング』誌の記者としてスタートしたそうだ)、その後物書きとしての成長を目指して大学に入り、そのまま教授となったという変わり種だ。
粂川先生とは既にあるSNSで「友だち」になっていたので、入学するかどうかを相談したのもまだ実際にはお会いしたこともない粂川先生だった。

演題については、「山口さんとご一緒するわけですから、ボクシングなどスポーツに関するものが良いでしょうか?」と気を利かせてくれたが、「粂川先生が今一番興味のあること、自信のあるものでお願いします」とお願いして、結局は「ゲーテ学の射程」に決まった。
この企画はニュートンにも挑戦し、哲学や科学の分野でも後世に影響を与えた万能の天才であるゲーテの業績を2日に渡って広範に語ろうとするもので、結果からいうと、慶友会の内外から多くの方に参加を頂き大成功に終わった。

講演会の日程が決まると、すぐに青木さんに話した。
青木さんは「行きます!実は若いときにゲーテは意味が分からなくて一度挫折したんですよ。だからいつか再挑戦したいと思ってたの!」と満面の笑みだった。
講演会の間、僕は司会やら質問が無い時など自ら積極的に質問して話題を広げるなどしていたので講演会中の青木さんの様子はあまり見ていない。

とはいえ、この日はいつもより多く青木さんの豊な感情表現をみることが出来た。
SNSで度々青木さんのことを書いていたこともあり、青木さんは初めて会う僕の友人女性に「お会い出来て嬉しいです」などと言われて照れたのか、少々戸惑うような素振りを見せることもあった。
また、2日間の公演が終わり「いやー今回の粂川先生の講演会で『ファウスト』がだいぶ分かったよ!」と喜び、懇親会にも参加して粂川先生にお礼の手紙を書くと言って喜んだ。
青木さんについては、粂川先生も「あれだけ活力のある人ですから、何かやってくれそうな気がしますね」といって目を細めた。

(【3ー夢と現実】に続く)


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