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そなたは美しい / デイダラボッチの正体

私はジブリ世代である。

ジブリ映画を観て育ってきたと言っても過言はないと思う。何年経っても、何回観ても、宮崎駿の映画が好きで仕方ない。幼稚園の頃は、母が迎えに来るまでトトロを観て待っていたし、小学生の頃は、母にねだって飛行石そっくりの鉱石のネックレスを買ってもらって呪文の練習をしていた。中学生の頃の留学先では英語版のDVDを買っては観ていたお陰でよくホームシックになった。大学生の頃の授業の課題論文では、ジブリの映画について書いて指定文字数を遥かに超えてしまい困ったりもした。

そんな長い付き合いのあるジブリ映画も年を重ねると違って見えたりもする。そしてまたそこがいい。子供と大人では観る視点、受け取り方が違う。

もののけ姫は特にそう感じる。

アシタカがサンにナイフを突きつけられながら言うこのセリフ。

サン「何故私の邪魔をした、死ぬ前に答えろ!」
アシタカ「そなたを死なせたくなかった」
サン「死など怖いもんか。人間を追い払うなら命などいらぬ!」
アシタカ「分かっている。最初に会ったときから。」
サン「余計な邪魔をして無駄死するのはお前のほうだ! その喉切り裂いて二度と無駄口たたけぬようにしてやる!」
アシタカ「生きろ…」
サン「まだ言うか!人間の指図は受けぬ!」
アシタカ「そなたは美しい。」 

子供の頃は、サンの外見のことを言っているのだと思っていた。サンが美人でアシタカが一目惚れしたのだと。

今は、アシタカはサンの内側を大事にしたかったのだと思うようになった。人間を敵にしても森を守って自然と共に生きようとするサンの心の美しさのことをきっとアシタカは言っていて、だから守ろうとしたのだなと。そして「生きろ」はサンのその心に対するものなのかもしれないと思っている。

尖っているけれどその真ん中にあるのは森を守りたいという純粋な心だからサンは美しい。自分たちの利益や欲を優先するものが多い描写の中だから余計に目立つのだと思う。

デイダラボッチの正体

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夜はデイダラボッチの姿となる生と死どちらも持つシシ神に私はずっと疑問があった。森の神ならなぜ森を生かす”生”だけではなく”死”も持たなければならないのだろうと考えていた。

ジコ坊がシシ神の首をとって逃げ、シシ神があらゆるものの命を吸い取り大きく膨れ上がる場面。人間だけではなく木々までも命をおとし、完全に制御不能となるが、サンとアシタカが首をシシ神に戻す。その直後、シシ神が森に倒れ、強風であらゆるものが飛ばされてタタラ場までもが緑に戻っていく。そのわずか数秒の場面と私が震災時に見た町の風景が重なることがある。

震災後から、デイダラボッチは津波みたいだと思うようになった。または、津波がデイダラボッチなのかもしれない。恐ろしいものと捉えているのではなく、自然を守りたい何かの力が働くことがあるのかもしれないと。

シシ神が”死”を持つのはきっと再生のため。自然が侵され始め、あるところまで達した時に丸ごと更地に戻して、もう一度やり直すためなのではないかと思う。

エボシが最後のシーンで「みんなはじめからやり直しだ。ここをいい村にしよう」と言うのは、きっとそういうことなのかなと思う。そしていつからか、この”いい村”というのが自然と共にある村のことであってほしいと思いながらエンディングを向かえるようになった。

最近どこかで読んだ記事で、宮崎駿が今の時代に映画を作るなら間違いなくもののけ姫だと言っていました。そしてそれはもう作ってしまったと。もののけ姫が上映されたのは20年以上も前です。

地球温暖化、環境破壊の深刻化が進む現代、サンやアシタカのような人間がまずはデイダラボッチに首を返さなければいけないのかもしれない、地球上で主導権を握りすぎた人間が自然にそれを返さなければならないのかな、そんなことをふと思います。

ジブリあまり詳しくない方はよくわからなかったと思います、失礼しました。多少自己満足の記事となりましたがお読み頂きありがとうございました。


4.28.2020 Rin

 

 

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