我が心、いずこ?
2023年6月23日
もうすぐ帰国する。最初は永遠に感じられるほど時の経過が遅かったが、過ぎて仕舞えば早いものである。
貴重な20代最後の年を、外国の田舎で、そして調査というなんだかよく分からないもののために費やすとは、我ながらクレイジーである。
クレイジーだが、多分普通の生活を日本でしていては、もしくはただ住んでいただけでは味わえないことをたくさん経験できたはずだ。
学問としての調査はどうなったのか分からないが、できることはやったし、だいぶ心身ガタがきているのでここいらが潮時な気もしている。
ようやく帰れるのかという安心と、もうしばらくはこの村の人に会えないのかという寂しさがあるが、どちらかというと心は晴れやかである。
帰ったとて日本が住みやすい国かと言われると返事に困るが、少なくとも拠点があるというのは安心材料だ。
村人にも、すでにお別れを告げている。もうしばらく会わないだろうということで挨拶をして回っているが、なんだか実感がない。来月あたりもひょっこり会いそうな気がしている。
寂しいのは寂しいのだが、やはりストレスも多かったのかもしれない。最近はずっと、日本に帰ってからやりたいこと=ここではできないことリストを眺めては更新し、眺めては更新し、ということを楽しみにしている。そんなことをしていると、私は真のフィールドワーカーにはなれないんだろうなあ、と思ったりもする。
何を成したのかはやはり分からない。しかし、ここの人たちの言葉を借りれば「世界の反対側」みたいなところにひとりで来て、曲がりなりにも言葉を使って、そうして得た自信というのもある。スペインでも、世界中のスペイン語圏でも、とりあえずは(苦しみもがくこともありながらも)暮らせるという自信は大きくついた。狭い島国から、アメリカ大陸の半分まで生活できる可能性が広がったのだ。これは大きな収穫だ。
もうひとつ副産物もあった。それは、やはり曲がりなりにも、ではあるが、かなりの月日をある目的のために費やせた、ということだ。
正直、研究をしていると言っても、自分が本当に知りたいテーマを自分が突き詰められているのかは分からない。そしてそれが面白いのかどうかも分からない。それでも、歯を食いしばりつつもその目的のために突っ走れたことは、別の種類の自信につながった。
最初に、自分がやってきたこの調査をクレイジーなことだと書いたが、この文章を書き進めているうちに、そうでもないんじゃないかと思いはじめている。むしろ、人生のこのタイミングで、これほどの経験ができたというのは別の収穫だったろう。
もちろん、自分ひとりで成したわけでは絶対にない。村人にはいつも助けられているし、マジで散々に愚痴を聞いてもらった友達もいる。いろんな人のおかげで、私は何か手に掴めないものを掴んだ気がする。
それでいいのだ。お金も資格も得たわけじゃないが、手に掴めないものを持っているだけで、ちょっとだけ得することだってあるだろう。
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