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【エッセイ】彼は進み続ける

 私はプールの中で立ちすくんでしまった・・・。

 私の息子は金槌である。大人になった今も泳げないのだろう。しかし顔付けて水にうかぶことくらいはできるから、さしずめ木槌程度かもしれない。

 当時小学校二年生だった息子、ここでは木槌とでも呼ぼうか。木槌は生まれた時から水泳が苦手で、小学校の水泳のテストに合格できなくて、夏休みの補修に行かなければならない瀬戸際に立たされた。木槌はプライドが傷ついたのだろう。補修に行かないで済むように何とかテストに合格したいと父に相談してきたのである。
 そこで毎週日曜日に私が通っていたスポーツクラブの室内プールに出掛けて、バタ足の練習をすることにした。
「ちょっと、泳いでみぃ」
 私は木槌の実力が知りたくて、少し泳がせてみた。
「・・・・・・」
 泳いでいるのではない。木槌は水の中でもがいていた。そこから父と子の特訓の日々が始まった。

 目標はたったの十メートル。息継ぎをするたびに、顔を水面から胸が出るくらいに上げ過ぎて、その反動で深く体が水の中に沈んでしまい、次の息継ぎができなくなって立ち止まってしまう。言い換えるとスタートして最初の息継ぎをするまでしか泳げないという実力だった。父は顔をあげないようにアドバイスをするが、何度も何度も同じ失敗を繰り返す。口をほんの少し水面から上げるだけでいいのに、子供にとっては簡単なことではないのだろう。
 どうすれば息継ぎがスムーズにできるのか、アドバイスをもらおうと通りすがりのインストラクターと話し込んでいると、木槌はいつの間にか近くにいなくなっている。どこに行ったかと思うと、顔を下に向けて泳ぐわけでもなくぷかぷかと水に浮かんでいた。こいつはまさに木槌だ。

 特訓を重ねて約二カ月。何回目のトライだろうか。木槌が水面から口だけを出して軽く息継ぎをした。
「行けるぞっ!」
 父は少し興奮気味に叫んだ。木槌は一回目の息継ぎをクリアして、足をばたつかせ、未知の領域へと進んでいった。そして二回目の息継ぎに挑んだ。父は固唾を飲んで見守る。木槌が水面から顔をあげた。下唇すれすれで息を吸って、また水の中に潜り込んだ。
「行けっ!」
 父のテンションはさらに上がる。
 その木槌が泳ぎを進め、今まさに目標ラインを超えようとしている。
「行けっ、あと少しや、頑張れっ!」
 私の声援が雄叫びに変わる。そして木槌の身体が、スローモーションのように十メートルラインを越えて行った。
「やったぁぁぁぁぁ!」
 私は大声と共に、水面に浮かんでいる木槌を思わず抱きしめた。すると木槌は驚愕の一言を私に言い放ったのである。
「離してっ、まだまだ先に行くねん」
 私は言葉を失った。私にとっては遠い目標だった十メートルは、木槌にとってただの通過点に過ぎなかったのだ。

 木槌は、息子は、彼は私の手を離れてどんどん離れていく。水の中で私はその姿を呆然と見送っていた。


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