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大人の期間、長すぎる問題について

だいぶ前だけれど、友達ともうアラサーだね、という話をした。こうやってアラフォー・アラフィフになるのかーという。

周りで結婚したり、妊娠・出産・育児をしている人も増え始めた。仕事に邁進して頑張っている人もいる。皆、それぞれ人生を進めている。

歳を取ることにそれほど嫌気がさしているわけではない。むしろ、歳を取ることにぎゃーぎゃー言っていたのは18、19歳くらいだった。

今、自分の心に住んでいるフェミニズム的にアウトな考えだけれど、華のセブンティーンが過ぎてしまった、もう10代もわずか…とか当時は考えていた。

ジェンダーに関する学問をきちんと学んだのは大学生からなので、時を経て、この考えが薄まったのかもしれない。学びって大事…。

最近歳を取るよりも、むしろ「大人」という期間が、子供に比べてあまりにも長いことを憂いている。人間、本当に20年で大人になれるものなのか。

個人的な解は、ぜっったいに「否」である。

20数年そこらで、大人になれるわきゃない。正直、私は自分自身でも、20代後半に入った今も大人の殻を被って必死に誤魔化している感が否めない。

失礼なことしていないよね…?マナー違反になっていないよね…?これで合ってるかな…と毎日手探り状態だ。

おそらくこの行動は死ぬまで一生続くし、一生続けることが周りの人への配慮に繋がると思っている。(とはいえ、他の人に強要するものではなく、あくまで私の中での約束だ。)

以前、SNS疲れに関連する記事を書いたが、ここで書いた内容とは別で、最近SNS疲労が起こる原因があって、それは大人になりきれてない大人があまりに多く見られる点だ。

特に、解が一つではない複雑な問いに対して、自分と反対の意見を持つ人を論破しようとする人の多いこと、多いこと。(多様性に関する内容は特に)

あまり賛同できないが、反対側の意見もひとまず傾聴してみる。そして何故そのような結論を相手が生み出したのか背景を考えることは、自分の問いに対する解を客観視する際に非常に有効な手立てだ。

何より自分のためになるし、無意味な争いを止める手立てにもなる。自分とは違うけど、受け止める。共存していく。の第一歩なのでは…と考えている。

SNSは、相手の顔が見えない。相手がどんな人生を送ってきて、どんなことに喜んで苦しんでいるか明確に推し量ることはできない。

そのような相手に対して、簡単に「あなたのこの意見は間違っている!」とか「あなたが悪いんじゃないですか」と簡単にコメントするのはとても怖いことだ。

SNSは、ちょっとした気持ちや日常を表すには最適なツールだと思う。あくまでお互いが一方的にお気持ち表明する分には良い。そこにごちゃごちゃ自分の意見を述べて絡むからよろしくない気がする。

共感を求めてSNSを利用する人もいると思うけれど否定されることや、自分の発言に誤りがあった際に指摘されることを覚悟しておかないと、本人が余計辛くなるツールでもあるなと感じる。

共感と否定は表裏一体だ。

子供の喧嘩より、経験値や知恵がついて、誰が悪い悪くないと責任逃れしようとする様が、大人って無様だなあと思う。自分への自戒も込めて。

子供たちは大人のそういう姿を、しっかりみているし、柔軟性が高い分、すぐに真似ができる。そしてしちゃう。大人になりきれない大人の再生産だ。

人生100年時代を言われているが、仮に100年と考えると法律上では、80年も大人をすることになる。(もう18歳が成人なんだっけか)

長い、長すぎる。

でもこの先も、大人として生きていかなければならない…。そこからは逃げられないから、今後も一生懸命もがいて足掻くしかない。

これからもきっと私は、大人の殻を被っていくんだろう。誰かを傷つけることも、傷つけられることもあるんだろう。

でも子供だった頃から教えてもらった「ちゃんと反省すること」「周りの人に感謝して、きちんと伝えること」を意識して笑顔でハッピーに日々を過ごせるようにこれからも頑張りたい。

まとまらなくなってきたので本日はここまで。

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