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「普通」が上書きされていく怖さ

学生の頃は、欲しい「もの」や「こと」に対して努力をすれば良いと純粋に思ってた。ある程度、努力すれば、ある程度のものは手に入ると。

高校生の時は良い大学に入ることが、何よりも欲しい「こと」だった。大学生の時は「彼氏」や「就職先」「良い経験」が欲しかった。

結果的に、就職先は、第一志望に行けなかった。ただ納得できる会社に内定は頂けていたのでそちらに落ち着いた。

ここでひとつ、良い意味で諦めの尺度を知った。頑張っても手に入らないものやことがある。そして、自分はそこまで有能でも働き者でもないと。

いい大学に行って大学生活を謳歌して、その間に良い人に出会って、良い就職先に入り、その内結婚して、家庭を築いて幸せに生きる。

最初はきっと親が私に共有していた「理想の幸せ」だったのだと思う。

こうなって欲しい、こうなればこの子は幸せになれる。それがいつの間にか内面化されて、私の理想になって、ひとつひとつクリアしていくごとに日常化=「普通化」されていく。

「普通」とはつまるところ、「こうあれば良い」という理想の集合体なのだと思う。

でもそれってちょっと怖くないか。全然「普通」じゃないやん。ただの「理想」やん。

最初は理想のひとつだったとしても、ひとつ手にして、またひとつ手にする内に、それが当たり前になって、普通になる。

これをするのが普通、これをもっているのが普通、なんでも普通「以上」じゃないと幸せではない。ふと、こんな風に自分を追い立てている気がした。

普通なんて、簡単に手に入らないのに。頑張って理想を手にしているのに。

そして普通を手にすることが出来なくなることが怖い。私たちが生きている社会は不確実的なものだから、普通であり続けるためには、ずっと努力をし続けなければいけない。

これがたまに私がヒュッと息苦しくなる原因ではないかと感じている。

人と比較するな、自分の軸や考えを持て、多様化の時代だと言われる現代だけれど、正直難しく無い?と思ってしまうのだ。

自分軸で生きていくには、やっぱりある程度の学であったり、ひたむきに物事を遂行する気力と体力であったり、一定の技術が必要だと思う。

なのでなんでも「普通」を求めることを少し辞めてみようと思った。(これがまたとっても難しいことだと思う。)

もちろん、日々、無理のない範囲で努力することは必要なので、頑張るが、頑張り過ぎないことを意識したい。頑張り過ぎない、というのは努力を怠ることではなくて、あくまでアクセルを踏み過ぎないための装置にすぎない。

頑張り過ぎないで、無理をしないで、と良く言われるし、私自身、友人にもよくいうけど、私の場合ここでいう頑張りや無理は「何」を指してるか考えた時、「普通の維持、さらなる獲得」だったので、言語化するついでに自分に対して、メモと戒めを残したいと思います。

本日はここまで。


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