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人類の歴史とはバカになる歴史

『一億総白痴化社会』という言葉を知っていますか。

1960年代日本でテレビが普及し始めた頃、評論家の大宅壮一がこう言ったんです。

日本人がテレビばかりを見るようになって誰も本を読まなくなる。そうなればものを考えるということをしなくなる。このままでは日本人全員が白痴になるという予言とも嘆きともとれる言葉ですね。

たとえば僕は小説を書いていますが、映画やテレビのない時代の人々とその後の人々では、読解力に大きな差があると思うんですよ。

どう考えても昔の人たちの方が、小説を深く読み込むことができたんじゃないでしょうか。

小説という文字で表現されたものを脳内で翻訳し、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の五感を鮮明に描き、登場人物の感情をありありと感じることができたと思うんです。

ですが映画・テレビなどの映像、マンガなどの絵が、人の想像力を補助するようになりました。

想像力をフルに駆使しなくても、簡単にストーリーを楽しめるようになったんです。

その結果、人々の読解力や想像力は極端に低下しました。そして小説を読む人も激減しました。

文字を読むだけで頭が痛くなるって人多いじゃないですか。小説を読むなんていう面倒な行為をしなくても、ストーリーコンテンツを楽しみたいのならば、映画やドラマを見ればこと足ります。

だからそういう人から見ると、読書家ってある種変人なんですよね。

感覚的にはライターを使わずに、火打ち石で火をつけている人を見るようなものじゃないですかね。

おいっ、誰が原始人やねん! でっかい石の金で轢き殺したろか!

まあそんなつっこみはさておいて、便利さが人の能力を奪うという傾向はさらに加速しています。

たとえばカーナビが普及した今とそれ以前では、道を覚えたり地図を見る能力が激減しているじゃないですか。

僕もカーナビがないときは、地図を見てある程度行く先の道を覚えながら運転していました。

でも今カーナビなしでまったく知らない場所に行けと言われたら、ちょっと自信ないですもん。

大宅壮一はテレビに夢中になる人間を嘆いていましたが、今の人たちはテレビすら見ないですからね。

スマホ、SNSに夢中になれば、人間が本来持っていた能力がどんどん失われていくでしょう。

こうして便利な発明品が次々と生まれ、人間が能力を失っていった結果どうなるか? 

その未来をつきつめて考えるとSF小説になるんですが、残念ながらそれを苦労して書いても、そのSF小説を誰も読んでくれないという悲劇が待ち受けています。

便利なものばかりに流れるのはいかん。そんなちゃぶ台をひっくり返す頑固親父みたいなことが言いたいわけじゃないです。

人間が便利なものに流れるのはもう歴史の必然なんですよね。

大宅壮一はテレビに夢中になって本を読まない人たちを嘆きましたが、文字というものが発明されたことを嘆いた人もいます。

それはソクラテスです。

古代ギリシャの哲学者ですね。釈迦やキリスト、孔子と並んで四聖人に数えられている偉人中の偉人です。

そのソクラテスは文字が嫌いだったんですね。文字に残して記録すると頭を使わなくなって、考える力が減ると力説していたんです。

たしかに文字が発明されてそれが記録に残せるんだったら、あきらかに記憶力が減ると思うんですよ。あとで読み返せばいいかってなるじゃないですか。

想像でしかないですが、当時の人々の記憶力ってそうとうなものだったんじゃないでしょうか。何月何日に何が起きたかとか、誰それがどんなことを言ったとか一言一句覚えられたんじゃないですかね。

三日前に何を食べたかを思い出せない現代人とは比べものにならない記憶力です。

文字は先人の知恵や知識を後世に残せるという大変便利な発明ですが、その分人間の記憶力と思考力を奪ってしまったんです。

結果、文字のおかげで人類はバカになってしまった。

そしてテレビが発明されて人は本すら読まなくなってさらにバカになり、スマホが発明されてもっとバカになる。

人類の歴史とはバカになっていく歴史なのかもしれません。

そう考えると嘆いても仕方ないというのがわかりますよね。だって自分は本を読んで偉いと思っている読書家の人も、ソクラテスから見るととんでもない大バカものなんですから。

でも逆で考えると昔の人たちが現代に誕生したら、とんでもない超人ということになりそうですね。

古代人VS現代人ーー

あっ、これは結構面白そうですね。こうやって企画って思いつくもんなんですよねえ。



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