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2002年からの武術エッセイ

こころをまんなかに置くってことはむずかしいことです。

相手の肩がぴくっと動いただけで、あるいはローキックのうごきをみせただけで、あるいはフェイントでステップインとかしただけで、目はそれをとらえ、こころは感じ、これからどううごくだろうと考え、右、左、上、下とちいさなところにくっついてしまいます。
このとき、こころはおおきなはたらきができません。

ちいさなはたらきしかできず、あいてもちいさなはたらきしかできなくなります。
それでは技がでてこない。

あいてにちいさなはたらきをさせておいて、自分はおおきなうごきをして、相手のおおきなところをもっていくのが技だと思います。

ことばのやりとりでもそうです。
なんのために、どんな気持ちをつたえるために、どんな考えをいいたいがために、どんなことをかんがえたいがために、ことばをやりとりしているのか。あるいは、あいてがどんな考えをもっているのか、どんなことを知っていて、それについてどう思っているのか。目的はなにかということがとてもだいじです。
もちろん、ことばのやりとりというものは、それだけではなく、なんとなくいろいろことばをやりとりする場合もあるけれど、それにしたって、あいてとなごやかに時間をすごしたいとか、あいてとの関係をどのようにもっていきたいのかという目的や意志があるわけです。

武術において、武術をまなんでいるのに技をつかえないひとは、ことばのやりとりにおいて、知っていることだけを相手につたえている、知っていることをいっぱいならべてじまんしているひととおなじだとおもいます。
相手にたいしてどんな目的があってむきあっているのか、それをじぶんのいしきのなかではっきりとわかっていない。
技をみせることがだいじだとおもっていて、相手をたおすために技をつかうとはおもっていない。
あるいは、あいての攻撃をどうさばき、どう受けるかだけに興味があり、あいてをたおすことが二の次になっている。

おたがいに知っていることをもちよって、じぶんのかんがえや知恵をみがこうとする。
これがおとなの会話であり、武術における稽古でしょう。
しかし、知っていることをもちよって、ものしり自慢をする。あるいは、言葉尻をとらえてあげつらい、よろこんでいる。
あとには、うぬぼれとくやしさだけがのこり、かんがえや知恵はのこらない。
これでは、こどもがじぶんのおもちゃをじまんしているのとおんなじです。
これでは、技なんてつかえないし、稽古にもならない。
そして、会話にもなっていない。

こころをまんなかに置くこと・・・・むずかしいですね。

えらそうなこといっていますが、わたしもときどきこどもとおんなじで、おもちゃのじまんをしていることがあります。

気をつけなければ・・・・。

2005年5月記す。

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