見出し画像

昭和生まれが気持ち良く読める原田マハ

 久しぶりにマハさんに戻ってきました。今回は「たゆたえども沈まず」「美しき愚かものたちのタブロー」の二作まとめて感じたことを書いてみます。

なぜ気持ちいいのか?

 この二作を読んでいる時、共通するある心地良さがあることに気付きました。それは、どちらも日本人がパリで、現地の人々と肩を並べて、時には尊敬を得ながら活躍するということがもたらす心地良さでした。なぜそれが心地いいのでしょう。

西欧への憧れ

 私は、これまで書いてきた内容からもバレていると思いますが、西欧かぶれです。西欧コンプレックスと言ってもいいでしょう。西欧の文化や考え方に対して強烈な憧れを持っています。昭和生まれにありがちかも知れません。それが何故なのか、いずれあらためて考える機会を持ってみたいと思っていますが、今回は深入りしません。

 実は初めて読んだマハ本「リーチ先生」もそうだったのですが、今回の二作とも、登場人物(日本人)は語学堪能で抜群に賢く、渡航先で現地の人々と不自由なくコミュニケーションを取り、仕事でも対等に渡り合います。西欧コンプレックスの私にとってはそれが何とも小気味良く胸のすく思いがするのです。自分ができなかったことを登場人物が代わりにやってくれる爽快感ですね。

リーチ先生の場合

 実は最初に読んだ「リーチ先生」にそういう要素があったから余計にマハ作品にハマったのかも知れません。「リーチ先生」の主人公「亀ちゃん」は、横浜で外国人がよく利用する食堂で働いていたことから英語を身につけ、ひょんなことから初来日したバーナード・リーチの世話役となり、その後弟子となり、リーチの片腕として英国にも渡り活躍します。

「たゆたえども」の場合

 この亀ちゃんを連想させる少しドジで一途な人物が「たゆたえども…」にも登場します。加納重吉は開成学校(後の東大)でフランス語を学んだ秀才です。重吉は同じ開成学校の先輩で、パリで画商として成功しつつある林忠正に誘われパリに渡り、林の助手として働きます。渡仏したばかりの重吉は、林がすっかりパリの美術界、社交界に受け入れられ、バリバリ仕事をこなす姿に圧倒され、この人にどこまでもついて行こうと決心します。ちなみにこれは私流解釈である「マハルール」の中の「一途な弟子と師匠の法則」にも当てはまります。つまり、重吉が弟子で林が師匠です。(「マハルール」についてはここで触れています👇)

「タブロー」の場合

 一方「美しき…タブロー」では、西洋美術史の研究者 田代雄一が、フランス国立美術館の総裁ジョルジュ・サルを相手に、フランス語を駆使してある重要な交渉を行います。それは第二次世界大戦の敗戦によってフランス政府に没収された「松方コレクション」と呼ばれる美術品群の返還交渉です。田代は松方幸次郎の先見性と決断力、天然の審美眼と人間性に惚れ込みます。ここでは松方が師匠、田代が弟子という構図です。

日本人が好む記事

 ところでネットニュースの見出しを眺めているとよく「日本人(アスリートやアーティスト等)が海外で活躍」とか「日本人のある行動を海外メディアが称賛」といった記事がよく読まれる傾向にあるようです。
 しかし私はそういった見出しを絶対にクリックしません、絶対にです。読んだら気持ちいい事はわかっていますが、それらはニュースとしての価値はほぼないと思っているからです。
 そういえば最近「コタツ記事」という言葉を知りました。なるほど、そうして見るとネットニュースはコタツ記事だらけです。ニュースとしての価値よりも「クリックさせること」が重要なのです。みんながコタツ記事をポチポチぽちぽちクリックすると、ニュースはやがてコタツ記事だらけになり、メディアの質は下がる一方、というアルゴリズムに現代は支配されています。

 脱線しました。これらマハ作品は、日本人が外国で活躍するという共通点があり、そこが私には気持ちよくてどんどん読めてしまうというマハマジックであるという話でした。
 実はマハさんも海外で相当悔しい思いをしてきたのではないでしょうか。だからこそ自分が書く小説に登場する日本人には、海外で胸のすくような活躍をさせるのではないかと私は思っています。違ってたらごめんなさい。

この二作のつながりについて

 ちなみに今回の二作は、ある友人の指南で「たゆたえども…」→「…タブロー」の順で読んだのですが、なるほど正解でした。

 「たゆたえども」はフィンセントとテオのゴッホ兄弟の物語です。兄のフィンセントは言うまでもなく、あのゴッホです。このオランダ人兄弟のフランスでの苦闘が、前述の加納重吉と林忠正という画商の視点から語られます。

 一方「…タブロー」は特定の画家の話ではなく、「コレクション」の運命を描いたものです。実業家から稀代の美術コレクターとなった松方幸次郎の人生とそのコレクションが辿る道を、松方の美術アドバイザーとして共にパリで濃密な時間を過ごした田代雄一が、美術史研究者の視点で回想します。
 元々美術には疎く、専ら実業界で名を馳せた松方幸次郎はヨーロッパで芸術に目覚め、ある夢を実現させるため、その財力を活かし絵画の収集を始めます。しかし第二次大戦が始まり、数百点の絵画をパリに残したまま帰国します。そして残されたコレクションの運命に、一枚のゴッホの絵が深く関わるのです。またその絵と松方コレクションについては「たゆたえども」の序章でチラっと触れられます。そういうわけで、まず「たゆたえども…」でゴッホの人生とその作品について触れておくと、「…タブロー」をより楽しめるという仕掛けでした。

アートをめぐって戦う人々

 ビジネスの世界における生き馬の目を抜くような攻防を、ウォールストリートなんかを舞台にして描かれる映画がありますが、マハ作品でも「戦い」がよく描かれるように思います。「楽園のカンヴァス」では、ルソーの絵をめぐってキュレター同士が火花を散らします。また「暗幕のゲルニカ」は、ピカソと、ある日本人キュレターが、時代を越えて戦争に異を唱える戦いでした。

 「たゆたえども…」では林忠正の戦う姿勢にゾクッとします。初めて日本を出てパリにやってきた重吉はどこか物見遊山で緊張感が足りません。そんな重吉に林が言います。 

「シゲ、お前にはまだわかるまい。……おれにとって、パリは花の都なんかじゃない。……ここは、戦場なんだ」そのとき、重吉は初めて見た。ーー華やかな画商ではなく、孤独な侍の顔をした林忠正を。

 一方「…タブロー」では実際の戦争に敗れた日本の代表団の一人として、田代雄一が「松方コレクション」をフランスから取り返すべくまさに決死の覚悟で「交渉」という戦いに臨みます。また戦時中は、ナチス支配下のパリでコレクションを守るべく、命がけで孤独に戦い抜いたあげく廃人同然となった人物も存在します。しかし結果的にはコレクションは不完全な形で、フランスから「寄贈」されることになります。「タブロー」はそのことに対するマハさん始め日本美術界の無念が滲み出ている物語でもありました。

アートの価値とは?

 マハ作品を読む以前には、私のような素人には「アート」と「戦い」という言葉が結びついてはいませんでした。しかし他のビジネス同様、美術関係者やむろん芸術家にとっても「アートとは戦い」なのだと、マハ作品から繰り返し教えられました。なぜアートが戦いなのでしょう。

 答えは簡単です。アートが「商品」として扱われるからです。しかし商品と言っても絵画は生活必需品ではないのでスーパーの棚に並ぶことはありません。ですので芸術家専業で生活していくには大抵支援者パトロンが必要です。(芸術家とパトロンについては以前にも触れています👇)

全てが「商品」になる時

 また少し脱線します。実は今、最近の流行に乗ってマルクスの「資本論」をかじり始めました。私の理解の範囲でごく簡単に「商品」について説明します。マルクス曰く「資本主義では、社会の《富》は次々と《商品》に姿を変える」。ここで言う「社会の富」とは、単純な例としては、きれいな湧水とか、空気の澄んだ豊かな森林などです。それが「商品に姿を変える」とは、湧水の出る場所を買い取って、その水をボトルに詰めて売るということです。森林を買い取って、木材を売る、あるいは今ならグランピングの施設を整備して客を呼び込むことかも知れません。とにかく何でもかんでも「商品」として売られるのが資本主義だと言っています。(ちなみに「運動」も商品になっているという話を以前にしています👇)

 どんな商品にもある「二つの価値」

 それからマルクスによると、「商品」には二つの顔があるといいます。それは「使用価値」「(交換)価値」です。「使用価値」とは、その商品がどういう役に立つかという価値で、「実用性」と言い換えてもいいでしょう。「(交換)価値」とは平たく言えば価格です。その商品がどれくらいの貨幣と交換されるのかということです。例えばここに二脚の同じ形の椅子があるとします。一つはプラスチック製、もう一つは天然木製だとどうでしょう。両方とも身体を休めるという「使用価値」(実用性)に違いはありません。同じ形なので座り心地も大差ないでしょう。しかし「(交換)価値」は下手すると数倍違うかもしれません。商品の二つの顔とはそういうことです(多分合ってると思います)。
 
 そして資本主義はやがてその本質として、人々の役に立つことより、資本を増やすことそれ自体が目的になると言います。つまり「使用価値」(実用を満たすこと)より「(交換)価値」に重きが置かれるようになるということです。それは、分かりやすくするためにかなり極端に言うと「クソの役にも立たないが、売れたらそれでいい」という感じの商品が巷にあふれだすということでしょう。私はちょっと前に、スマホゲームの中で使われるアイテムや LINE のスタンプを買う人がいると知って驚きました。それで空腹をしのげるわけでも、寒さから身を守れるわけでもないのに。「いや、スタンプ使ったら相手の気持ちをほっこりさせるやん」という「使用価値」を主張する人がいそうですが、マルクスに言わせるとそんなのは微々たる使用価値に過ぎないでしょう。(とはいえ私もスマホに替えてみたところ、スタンプが欲しくてたまらなくなりました。)

アートの価値はどっちの「価値」?

 かなり回り道をしましたが、ここでようやく「アート」です。アートには「使用価値」はあるのでしょうか。やはりまた「観る人の気持ちを豊かにするではないか」という声が聞こえてきそうです。んー、確かに。ここで私も分かりました。LINE のスタンプもアートも、人の気持ちに働きかける「使用価値」はあります。しかしそれは生命維持や生活の利便には直結していません。いや、寒い夜にはカンヴァスを燃やしたら暖を取れるという使用価値があるかもしれません(!)。とはいえアートというものは「使用価値」よりも「(交換)価値」の側面がより強調される「商品」だと言えるのではないでしょうか。

 そして前述の通り、資本主義とは資本を増やすことが最大の目的になっていくので、基本的な生活に不可欠な商品がほぼ行き渡っている先進諸国では、「売れそうなもの」を無理やり考え出す、いわゆる「需要の掘り起こし」を無限に続けることになります。しかしそういう「(交換)価値」がメインの商品は作っても売れるかどうかは未知数です。それを決めるのはまさに市場マーケットだということになります。と、ここで大きな疑問にぶち当たります。画家は果たして「売れそうな絵」を描きたいのでしょうか?

林忠正はゴッホの絵を買わなかった

 「たゆたえども」を読んでいて、私はずーっと疑問でした。パリで活躍する腕利きの画商、林忠正はゴッホの才能を早くから見抜いていました。しかし最後までゴッホの絵を買って売り出すとことをしませんでした。なぜなのか。
 ゴッホはオランダ時代から仕事に就いても長続きせず生活苦に喘ぎ、弟テオの援助を受けながらパリで創作活動に入りますが、創作にも苦しみ精神を病みます。そしてようやく彼独自の表現が熟成してきた頃に自殺してしまいます。そうすると、兄を一心同体で支援してきた弟テオも、間もなく亡くなります。
 そしてゴッホの死後百年経ったバブル期の日本では、ゴッホの絵に億単位の金が動いていました。まったくバカにした話だと私は憤ってしまいました。ゴッホが命を削りながら描いていた時には何の価値も生まなかった彼の絵に、百年後に億の価格をつけた落札者はこの残酷さに思いを巡らせたでしょうか。

星月夜

 「これは素晴らしい絵だ!」と誰かが、いや林忠正が言い放ったなら、あるいはゴッホは救われていたのではないか、と私は思うのです。しかしあの当時その勇気を持つ者がいなかった、林でさえも。それくらいゴッホの描く絵は「危険」だったとも言えます。危険とは、市場に受け入れられるかどうかが読めないということです。
 
 先ほど私は「画家は”売れそうな絵”を描きたいものか?」と言いました。しかしそもそもアートという商品が持つ価値のほとんどが「(交換)価値」であるならば「売れそうなもの」を描くしかないのです。もしそれで生活するならばです。でもゴッホのような画家はそんな器用さは持ち合わせてはいませんでした。そこで大きな役割を果たすのが画商なのだと今回知りました。
 それは、音楽家とプロデューサー、作家と編集者の関係に似ているかも知れません。つまり画家が描きたい絵と、市場が求めている絵の間を取り持ちつなげる仕事です。音楽であれ小説であれ絵画であれ、それが商品である以上市場の要求と無縁ではいられません。しかし市場の評価とは絶対的なものではなく、移ろいやすく不確実で気まぐれなものです。それを鋭い嗅覚で敏感に感じ取って、画家にアドヴァイスしたり、あるいは市場のトレンドに合いそうな画家を発掘するのが画商の仕事のようです。それでも、繰り返しますが、林忠正はゴッホの絵を売り出さなかったのです。

 そして現在の我々は、やれひまわりだの糸杉だのとキャーキャー言いながら、ありがたがってゴッホ展に足を運んでいますし、それが残酷な現実なのです。しかしあまりにも残酷すぎる、と私はこの本を読んで思いました。もちろん誰にも罪はないのですが。

コレクターの戦い

 一方、絵画(タブロー)に魅せられた愚か者たちのコレクション形成の戦いも知ることができました。つまり作家側ではなく、市場側の視点がメインになっているのが「美しき、愚かものたちのタブロー」でした。

 日露戦争や第一次世界大戦に勝利し好景気に沸く日本で、軍事力や産業といったいわゆる「国力」に関係のない「絵画」に多額の資金をつぎ込んだことを自虐的に「愚かもの」と松方を評したことがこの本のタイトルです。

 松方は、これから世界で認められるには「文化」だ、と気付き、日本の若者に本物の西洋絵画を見せるための美術館をつくろうと絵画収集を始めます。パリでは金があればどこの画廊でもVIPとして扱われますが、時代を越えて評価される絵を買うことが重要です。うっかりすると粗悪品を高額でつかまされることもあるかもしれません。そんな中、絵画収集の指南役としてパリの松方に付き添った田代雄一が、雷に打たれたように衝撃を受け、「絶対買いだ!」と勧めたのがゴッホのある作品でした。

 松方はロンドンやパリで絵画を文字通り「買いまくる」のですが、第二次世界大戦が始まってしまい、コレクションはパリに残されたままになってしまいます。その後松方コレクションがいかに戦禍を免れ日本に帰っきたかといういきさつは、実は壮大なドラマであり、そこには一人の無名の人物による壮絶な闘いがあったことをマハさんは伝えたかったのだと思います。

アルルの寝室

 絵を買ったのは松方です。しかし松方がコレクション管理のためにパリに呼び寄せたこの男がいなかったら、現代の我々は松方コレクションを拝むことはできなかったかもしれません。いやもちろん私はまだ松方コレクションを観たことはありません。これは死ぬまでに観ないといけませんね。

 最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?