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「勉強」について(後編)

 大学生になって、もう勉強なんて真面目にしないぞと思っていたのに、気づけば私はものすごく真面目な学生になっていた。
 受験勉強に必死になりすぎて忘れていたけれど、そういえば私は元々勉強が好きだった。一人で部屋に籠って新しい知識を吸収すると、世界が広がるようで楽しかったのだ。
 大学の授業は、一人で勉強するよりもますます面白かった。自分の興味のある授業を選択できるし、ちょっと変わった教授たちが、冗談交じりに面白い話をたくさんしてくれる。私は、朝早い授業も受講したし、授業にはきちんと出席して、誰からもノートを借りずに期末試験を受けた。
 それでも、大学受験という目標のために必死に勉強していた高校生時代に比べれば、勉強時間は圧倒的に少なくなった。余暇が沢山出来た。そのことが、何故か不安だった。サークルを二、三掛け持ったり、バイトの予定を詰めたりしてスケジュール帳の空白を埋めた。それでもまだ不安だった。受験勉強のために自分の時間を犠牲にしすぎて、暇があれば勉強、つまり「やるべきこと」をする、というライフスタイルが染み込んでしまっていたのだ。だから、さあ「やりたいこと」をやりなさい、と時間をたっぷり与えられると、どうすればよいか分からなくなってしまうのだ。
 将来に対する漠然とした不安もあった。勉強ばかりしてきた私は極端にコミュニケーション能力が低い自覚があったので、普通に就活をして採用されるようにはとても思えなかった。そこで私は考えた。やはり私には「勉強」しかない……(就職先を特定されたくないので詳しい話は割愛するけれど、)結局私は大学生活の半分を猛勉強に費やした。そうして、なんとか就職することができた。

 就職したことで漠然とした不安は幾分か和らいだけれど、やはり今も私は自由な時間に弱い。常に「やるべきこと」をしなければ、という強迫観念に突き動かされるようにして生きている。「やるべきこと」は家事だったり、仕事に関する勉強だったりするが、趣味の創作でさえも、「何か価値あるものを創らなければ」と強迫的に打ち込んでしまい楽しめないことが多い。こうして文章を書くことも、文筆家への憧れを満たすための趣味であると同時に、何か書いていないと自分のアイデンティティーが損なわれていくような気がして、焦燥感で書いている面がある。
 こういう性格になってしまったのには、点数を取ることだけを目標に気が狂ったように勉強していた暗黒の青春時代が影響していると考えざるを得ない。もう一度あの頃に戻って、青春をやり直したいとよく思う。



 
 でも、勉強をたくさんして良かったと思うこともある。覚えたことの大半は忘れているが、ひょんなことが記憶に残っていて生活に役立つこともあれば、テレビを見たり芸術作品を鑑賞したりしても、時代背景がなんとなくイメージできる。「これは昔勉強したことがあるな」、と思うことで興味関心が深まったりする。自分に合った「勉強の方法」が身についているから、仕事上勉強しないといけないことが出てきても楽々乗り越えられたし、山ほど与えられる課題を効率的に処理するという意味では、仕事自体勉強に通じるところがある。

 太宰治は、勉強の意義についてこんな文章を残している。







 「勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。」(太宰治「正義と微笑」)


 つまり、与えられた勉強をこなしながら、興味関心を広く持つことによって世界が広がり、人間的に豊かになれる、という意味だろうか。私はこの文章がとても好きで、辛かった受験の日々を思い出す時は、この言葉を思い浮かべて自分を慰めるようにしている。必死で覚えたことの大半は忘れているけれど、きっと私の中にひとつかみの砂金は残っているはずだ、と思う。
 
 ただ、受験勉強というものは、結局は点数を取ることが目的であって、世界を広げるきっかけになり得ると同時に、狭める要因にもなる気がする。例えば受験勉強をしていて、歴史に物凄く興味が湧いたとして、関連する本や漫画を読み漁っていたら日が暮れてしまう。点数を取ることだけを目的にすると、そうやって寄り道している時間は「無駄」でさえあるのだ。
 昔は勉強自体が好きだったのに、いつの間にか私は点数を取ることだけを考えるようになっていた。そうして、上手に世界を広げることができなくなった私は、せっかくつかんだ砂金も指の隙間からぼろぼろとこぼしてしまっていたんだろう。


 こんな私を反面教師にして、息子には、純粋に勉強の楽しさを知ってほしい、世界をどんどん広げてほしい、と思う。しかし、そのために親ができることは何なのだろう、と考えると、これがまた難しい。
 まだ赤ん坊の息子だけれど、私の母は早くも○○式教育法、みたいなものを勧めてくる。息子を私の二の舞にさせたくないので、母の言いなりにはならないつもりだけれど、じゃあどんな風に息子を教育するんだ、と聞かれたら自分の中に確固たる答えがまだない。私の夫は、親から勉強しろと言われたことがないらしく、息子にも口うるさく言う気はないそうだが、それで良いのかも分からない。息子の教育については、これから沢山悩みそうである。
 

 相変わらずがり勉な私は、最近欲しい資格があって、子育てをしながら空いた時間に勉強している。点数を取って合格したい気持ちはもちろん強いけれど、あまり必死になりすぎると昔のように病みそうなので、純粋に勉強を楽しむように心がけている。人間は何歳になっても勉強できる。覚えては忘れ、覚えては忘れを繰り返しながら、これからも少しずつ私の世界を広げていければいいなと思う。