私のせいで?
病院に連れて行った娘が即日入院、手術となった時、その後のつらそうな治療の日々も含めて、やっぱり私は自分を責めた。
ああ、私がもっと早くに連れてきていたら、こんなつらいことをさせずに済んだかもしれない、って。
そもそも、学校で保健室の先生と娘がやり取りしているのを、別件で来校していた学校医の先生が聞き、すぐの受診を勧めてくれた、そして学校からほど近い、普段は行かない病院でたまたま専門の先生がおられて、の運びであって、それは僥倖ともいえるくらいの、幸運が重なってのことだった。
そのことに感謝しつつも、やっぱり最初、私は自分自身を責めた。
そう言われれば、もしかしたら、あの症状も前兆のひとつだったのかもしれない、そんなことを思い返して、ああ、あの時連れてきていたら、とか、でも、あれだけで病院を受診なんて、多分、ない、とか思ったり、つまりは、考えても詮無いことに違いなかった。
手術は無事に終わり、でも、その後の経過は一進一退みたいな感じで、少し、長引いた。
でも、私はなぜか、この子は大丈夫、って確信みたいなものが、あった。
どんなに検査数値がわるくても。
ネットで調べたら、いくらでも、不安になれるような病名を告げられても。
私の右斜め上に感じる、ハイヤーセルフなのか、守護してくれる存在なのか、そういう存在も、大丈夫、と私に伝えてくれていたし。
自分を責めそうになると、私は、これは、娘の学びなのだ、と思うようにした。
娘の学びは娘の学び、であって、どんなに私が願ったところで、私が代わってあげることはできないのだ、と。
そしてもうひとつ。
娘がここでお世話になることで、娘に関わってくれる方々が、この病院が、癒やされてゆく、そんなイメージが、私の中に浮かんできた。
お医者さんや看護師さんはじめ病院スタッフの方々、院内ですれ違うほかの患者さんたち、この病院全てを、娘と私は、今、癒やしているのだ、と思えた。
医師と患者。
普通に考えたら、助けるほうと助けてもらうほう。
でも、助けるほうも、一面では助けられているのかもしれなくて、それは、子育てが、育てているようで育てられている面もあるのと似ているのかもしれなかった。
結果的に娘は、無事に回復し、退院し、入院中さまざまな学びをした彼女は、こちらがびっくりするくらいに、変わった。大人に、なった。
そんな娘を見られて、私は、嬉しい。
母親って自分を責めがちな気がする。
本来、責めるべきことなんかじゃ全然ないはずのことでも。
カゼひかせちゃった
虫歯にさせちゃった
メガネにさせちゃった
体弱く産んじゃった
きっとどれも全部、その子の、学び。
結果的に、親の学び、にもなるような。
だからホントは、母親が自分自身を責めることなんて何ひとつ、ない。
その子の力を信じて、全てはよくなる過程なのだと信じて、ゆったり構えていればいいだけだ、ってそんなふうに思う。
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