救われない不登校

近年、不登校が増加傾向にあるそうだ。
私は現在高校1年生なのだが、中1から中2まで、学校に登校はするが早退する、という生活を2年間続けていた。

その期間の数あるエピソードのうち、
"スクールカウンセラー"の存在がかなり印象に残っている。
スクールカウンセラー(以後、SC)とは要は、
学校に馴染めない子の話を聞いてあげて、改善・解決に導いてくれる人で不登校支援のひとつなのだが、あくまでも学校で起こった問題、例えばいじめ、教師や友達とのトラブル、給食や宿題が苦手、などには直接的な対応ができるが、パーソナルな部分にはなかなか踏み込むことがないのが実情である。
だから、私のような家庭の事情や個人的な感受性の不具合で心身の不調を起こし、それゆえ学校に通えない人間を根本から救ってくれる存在ではない。

そんな私がSCにしてもらった事は
クラス名簿を差し出され、
「この中で苦手な子いる?」
と聞かれた事くらいだった。
その時、

人の事を"苦手だ"と思える性格なら、
学校に行くのがつらいなんて思わないのに

と思った…のは数時間後の話で、
本当はほぼ反射で、少し声がでかいなぁと感じていた女の子の名前を出してしまった。
SCに、
分かった、クラス替えも考慮して先生に伝えておくねと言われながら、
私は助けを求めたのに、結果的に自分に嘘をつくことになったのをとても後悔して、とぼとぼと相談室を出た。
その後、本当にその子と同じクラスになることはなかったけど、そこから得られたものは何もない。せいぜい鼓膜の健康くらいだ。

このことを私はずーっと引き摺っていた。
誰かを嫌いだと思うことは、私の信条に反しているのだ。特定の人を"嫌いだ"と自分と身の回りの人との差別化が図れたら、他者との感情の線引が曖昧にならずに、誰かの不幸の為に泣くとか、そんな心の消耗をしなくて済むだろうよ、と思う。
私はそういう話がしたかったんだろうなー。もっと哲学的な、精神世界の、終わりの見えない優しさを崇拝するような。名簿を差し出され、名指しして、先生に考慮してもらって。そんなふうに片付けられることなら、こんなに悩みあぐねてなんかいない。

これは、タイトルにもある、救われない不登校の一例である。

この感情の温度を保ったまま来た15歳の冬、
私はカート・コバーンの遺書に出会った。
その一節に、心がはっとした。

There's good in all of us and I think I simply love people too much,so much that it makes me feel too facking sad.
訳:
人間みんなどこか必ず良いところがある。
だから本当に人が好きだ。あまりにも愛しているので悲しくなってしまう。

カートコバーンの遺書を詠む より

これを読んだとき、
私と同じこと言ってる…!と、
失礼ながら思ったのだ。
これこれ、私がSCに言いたかったのはこれだよ!
と。あの声がでかい女の子だって、他の人からみれば長所だし、私からみても長所だと思うところはきっとあるはずだ。だからこそ私があたかも酷い事をされたかのようにSCに言ってしまったことをとても後悔している。

このカート・コバーンの遺書によって、救われないと思っていた自分が救われたことに気づいた。

そのとき、不登校であれ何であれ、自分を救えるのは自分なのだと思った。自分にあった方法を見つける。方法はなんだっていい。救われないのではなく、救うのだと。

しかし、カート・コバーンの言葉がそこにあるだけで、私が学校に行かなくていい理由にはならないし、心身が綺麗さっぱり解決したわけでもない。行きずりの学校生活はその後も続いたし、今も悩みあぐねている最中である。 

それでもいい。なぜなら私こと"救われない不登校"は、"救われる方法"などいくらでもあることを知っているのだから。


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