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命の理由~続・ファティマの指【#シロクマ文芸部】

 平和とは、何だ?
 掬っても、掬っても、どれだけ掬い上げようとしても、命が、指の間からこぼれ落ちていく。

 遠くに聳え立つ山脈に目を細める。頂上が雪で覆われた、遥かなる山。此処は、天国の中にある地獄だ。終わらない戦闘。毎日、死にゆく人々。

「サクラ、すごく疲れているようだけど、少し休んできたら? ずっと寝ていないんでしょう?」

 キャンプ地のテントの脇にある、小さなベンチに深く腰掛けた私の目を、看護師のアイリーンが覗き込む。アイリーンの故郷は、東南アジアの、豊かな熱帯の森だ。アイリーンには、この国の太陽がよく似合う。

「まあね」

 そう言って無理に作った笑顔の嘘を、この優秀な看護師はすぐに見破った。

「休んで。今すぐに」

 アイリーンが、私の肩をそっとさすった。温かい手だ。その温かさが、脳の奥深くを刺激する。涙が、とめどなくあふれて止まらない。

「どうすればいいの? 次から次へと患者はやってくる。そして必ず、そのうちの何人かは死んでしまう」

 アイリーンは、悲しそうに、少しだけ微笑んだ。私を理解してくれていることを、表情で示すように。

「サクラは、どうして医師になったの?」

 そうだ。私が医師になったのは。

「ファティマのため。私のお母さんのためよ」
「聞かせて」

 アイリーンの、くっきりとした二重瞼の下の大きな褐色の瞳が、私の両目を交互に見る。くるくると動くその瞳に安心し、私は記憶を辿る。



 
 私は、父親の顔を知らない。戦禍、平和団体に保護されたファティマが日本へと逃れてきたとき、私はすでにファティマの胎内に着床していた。二十歳にも満たなかったファティマは、迷わず私を産み、「サクラ」と名付けた。桜の花を愛するように、日本の人々が、私を愛してくれるようにと。

 戦地からやってきた私たち親子の容姿は、当然ながら日本人のそれとはかけ離れていた。瞳、髪、肌が、「みんな」とは違う。私たちが「ナンミン」、「ガイジン」と呼ばれるのに、時間はかからなかった。母国語の他に、少しの英語しか話せないファティマの代わりに、私が、日本語で周囲に私たちの意思を伝えた。私が日本語を話すと、「日本語上手だね」と、褒められたことをよく覚えている。

 ファティマの母国語は、私とファティマの、秘密の暗号だった。学校で私が嫌な目に遭うと、ファティマは、周囲の人には理解できない私たちの母国語で、私を労り、時に、私をいじめた子供を非難した。

「サクラが誰よりも優しい子だって、私にはちゃんとわかっているわ」

 ファティマはいつもそう言って、私が好きな歌を歌ってくれながら、薬指のない、温かな左手で、私の背をさすってくれた。

 どうして、ファティマの左手には薬指がないのだろう。疑問はやがて、「私という人間」に対する、根本的な問いに変わった。

 私が生命として発生したとき、ファティマに何が起こったのだろう。思春期を迎えると、私の心は複雑な思いに駆られ、しばし痛んだ。学校で、生物や、歴史の授業を受けていれば、想像はつく。それなのに、ファティマは、私に、溢れるくらいの愛情を注いでくれた。

 ファティマ、どうして、こんな私を愛してくれるの?
 ねえファティマ。私たちの故郷では、毎日、沢山の人が戦争で命を落しているんでしょう? 
 私は、ここでこうして、生きていていいの?
 
 ファティマは、自分からは決して、戦争や母国のことを語ろうとはしなかった。ずっと聞きたかったことを聞けないまま、ファティマの心臓は壊れ、私を残して、ファティマは、神様のもとへと旅立った。

 優しく、美しかったファティマ。
 私の、たった一人の家族。

 医師になると決めたのは、ファティマの骨を拾った時だった。私は、ファティマの遺骨を墓地に埋めることを拒否した。ファティマは、誰よりも故郷を愛し、故郷の人々を案じ、故郷に帰りたいと望んでいるはずだと、わかっていたからだ。

 医師になり、ファティマと一緒に故郷に帰ることが、私の目標となった。

 沢山の優しい人々に、経済的にも心理的にも、助けてもらった。その人たちは、私を「サクラちゃん」と呼び、決して私を「ナンミン」や、「ガイジン」などとは呼ばなかった。私は死に物狂いで勉強し、意中の医大に合格することができた。

 来る日も来る日も勉学に励み、私は国家試験に合格した。心臓外科を希望していたつもりだったが、インターンが終わると、自分でもわからないまま、産婦人科を選んだ。

 毎日繰り広げられる、命がけのお産。緊急事態も多発し、それでもなんとか仲間たちと困難を乗り越え、経験を積んだ。妊産婦たち、新生児たちすべてが、どういうわけか、ファティマと私のように思えた。

 悲鳴と、産声。
 この世で、最も愛されるべきもの。

 産婦人科医となって五年が経過し、私は、紛争地域に医師を派遣するプロジェクトに応募した。そして、ファティマの遺骨をザックの中に背負い、この国に来た。私が発生した、この大地に。



 一気に話し終えると、私は深く息を吸った。

 ずっと私の傍で話を聞いてくれていたアイリーンの目には、涙が浮かんでいた。アイリーンは、相手に共感できる力が極めて強い。患者に寄り添える、優秀な看護師たる所以だ。

「サクラ、あなたの話を聞けて、とても嬉しいわ。話してくれて、ありがとう」
「私の方こそ、医師を目指した理由を思い出せた。初心に帰ることができた。本当に、ありがとう」

 声に出すことで、言葉にすることで、私の頭は澄んだ。



「ドクター・サクラ! 急患です! 早くこっちへ!」

 アイリーンと私は、すぐに立ち上がると、テントへと走った。

「患者は、十八歳女性、初産婦! 水汲み中に破水し運ばれました!」

 アイリーンと一緒に、状況を確認する。

「陣痛はいつから?」
「開始から二十時間が経過!」
「陣痛があるのに、この子に水汲みをさせたの!?」

 かっと頭に血が上った。
 アイリーンが、私を手で制する。
 アイリーンの目は、冷静だった。

「お産が全然進んでないわ。どうする、サクラ?」

 すぐに、腹部を触診する。

「赤ちゃんの姿勢がおかしい。回旋異常ね」

 患者の少女は、激しい痛みと戦いながら、不安そうに私を見つめた。
 私は、ファティマから習った、この国の言葉で、ゆっくりと少女に話しかける。

「ここまで赤ちゃんが下りてきていたら、産むしかないわ! 私たちが全力でサポートするから頑張りましょう! あなたも、赤ちゃんも、生きるのよ!」

 日本の大学病院のような設備はここにはない。処置も限られてくる。しかし、だからと言って、母親と子供を守れない理由にはならない。

 私にできることは。

 ファティマの笑顔がよぎる。

 私を助けてくれた優しい人たちの手が、ファティマの手が、私の背中を強く強く押した。



 何としても、乗り切る。
 この母と子を、守る。



 数時間後、キャンプのテントに、高らかに産声が響いた。
 母子ともに、無事、一命を取り留めた。

 ふと、昔の悩みが去来する。
 この少女は、この赤ちゃんを、本当に望んでいたのだろうか。

「見て、サクラ!」
 
 満面の笑みのアイリーンに肩を叩かれ、はっとする。
 小さな手が、母親の指をしっかりと握っている。若い母親は、微笑みながら泣いていた。


 ファティマ。


 私たちも、こんな風だったのかな。
 私、産まれて来てよかったのかな。


 ねえ、ファティマ。
 私を産んでくれて、ありがとう。

 

<終>

この作品は、春ピリカグランプリ2023応募作、「ファティマの指」の続編となります。


今週は、比較的時間の余裕がありました。
小牧幸助様の下記企画に参加させていただきます。

シロクマ文芸部に入部してから、早4か月。
短い期間に、書いて、推敲して、を繰り返し、気づけば、憂鬱な週明けが、皆さまの作品を読めるというワクワクに変わっておりました。

小牧部長、本当にありがとうございます。

さて。

平和とは、というお題。
真っ先に、ファティマとサクラの物語の続きを書きたいと思いました。
サクラのその後について、書きたかったことを盛り込みました。
真面目で、時に自分を責めてしまう、産婦人科医のサクラと、底抜けに明るくて情の深い、看護師のアイリーンに登場してもらいました。

平和とは、何なのか。
すぐに明確な答えをだすことはできませんでした。

書き終えて。
平和とは、すべての命が大切にされ、守られることなのではないかと。

不覚にも書きながら涙してしまいました。

たとえ、祈ることしかできなくても。
命の理由が、平和でありますように。

#シロクマ文芸部






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