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ユダヤ人はなぜ差別されたのか

 ドイツを旅行されたことのある方は、ドイツの町のいたるところに何かしらの記念碑があることにお気付きでしょう。特にナチスによる犠牲者を追悼する記念碑、ナチスに特化した博物館が多いことにも驚かれると思います。ドイツでは負の歴史と向き合い、反省を促す教育が始まったのが1960年代であったことは以前、記事に書きましたが、西ドイツ政府は80年代にナチスドイツに関する建造物建設のための資金を大幅に増やし、東西統一後の16の連邦州すべてにナチス政権犠牲者のための記念館、記念碑、博物館、資料館、特別教育機関を建設しました。例えばユダヤ人犠牲者追悼モニュメント、安楽死政策犠牲者のための記念碑、強制労働者の子供のための記念碑、ナチスが禁圧した書物を焼いた焚書の記念碑、政治犯の死刑が執行されたプレッツェンゼー記念館、シンティ・ロマの大量虐殺の犠牲者を追悼するモニュメント、ユダヤ人強制輸送の出発駅グルーネヴァルト駅プラットホーム、ゲシュタポ刑務所、ユダヤ博物館、破壊されたシナゴーグ跡、同性愛者犠牲者を追悼する記念碑、ユダヤ人絶滅作戦会議が開かれたヴァンゼー博物館、旧ユダヤ人老人ホームの犠牲者記念碑、ユダヤ人をかくまっていた工房博物館、ナチス抵抗運動家を追悼する記念碑、ナチスに殺害された政治家を追悼する記念碑など、ベルリン市内だけでも100カ所以上にのぼります。ベルリンに数日滞在し、記念碑や博物館を見て回るだけで、ナチス時代の歴史について一通り勉強ができます。

 ところで、ユダヤ人迫害はヒトラーやナチス政府が発明したものではありません。中世以来、ユダヤ人はヨーロッパ中で受難にさらされてきました。それでは、なぜユダヤ人はここまで嫌われたのでしょう?その理由は大きく分けて、4つあります。

①宗教的な差別。キリスト教会の権力が絶大であった中世から、ユダヤ教徒は異端とされてきました。聖書の中でユダはイエスを裏切ったせいで、イエスは十字架にかけられたのです。しかし、それは神の計画であって、ユダの裏切りも包括した信仰なのですから、このことでユダヤ人がキリスト教徒に恨まれる筋合いはありません。そもそもイエス自身もユダヤ人だったのですから。13世紀にはユダヤ人はキリスト教徒と区別できるよう、ユダヤ人服の着用、ユダヤ人街に居住することが強制され、キリスト教徒との交流が禁じられました。1543年にはあの宗教改革者マルティン・ルターまでもが、「ユダヤ教はキリスト教にとって不要で間違った宗教」であり、「イエスの死はユダヤ人の責任である」とし、「シナゴーグ、ユダヤ人の家、学校に火をつけ、燃えないものは土で覆い、その石や燃えかすを永遠に見ることがないようにする」べきであると書き遺しています。ただし、歴史学者たちに言わせると、当時、一向に改宗しようとしないユダヤ教徒に対して頭でっかちなルターは業を煮やしていたこと、そしてルターの価値観は当時の教会、社会と一致したものであり、ルターが特にファナティックな反ユダヤ主義者と決めつけるべきではないと主張しています。いずれにせよ、これが一般的な当時の感覚であったならば、いかにユダヤ人への差別は根深く日常的であったかが想像できます。

②経済的成功への嫉妬。ユダヤ人は中世では手工業ギルドへの加盟、土地の購入が許可されていなかったため、手工業と農業に携わることは不可能でした。しかし、キリスト教会が信者に禁じていた金貸し業はユダヤ教では許されていたため、ユダヤ人は商才と金融業のセンスを遺憾なく発揮して資本を増やし、やがて近代になると家族を世界中に住まわせて国際的な大資本家となっていきました。金融業だけではなく、当時のほとんどのドイツの百貨店、繊維産業、高級レストラン、高級ホテルはユダヤ系であり、桁外れな資産家が多かったのです。

③社会的成功への嫉妬。19世紀になると、ようやくユダヤ人は法的な平等を得て大学で学ぶことが許されるようになり、大学進学者が増えていきます。例えば、1886年のプロイセン全人口に占めるユダヤ人は1%程度に過ぎなかったのにもかかわらず、大学におけるユダヤ人学生の割合は9%、1871年のプロイセン弁護士におけるユダヤ人の割合はわずか3%であったのが、1880年には7.3%に、1893年には25.4%にまで増加していったのです。医師も同様でした。20世紀初頭には、政治、経済、芸術、文学、医学、物理、化学などのほぼすべての分野でユダヤ人が活躍するようになり、それと同時に、ユダヤ人たちに対する非ユダヤ人からの敵意も高まっていきました。「あまりにユダヤ人が多すぎる」と、ユダヤ人の入学を制限する大学まで出てきました。それだけユダヤ人学生は向学心旺盛で、優秀だったのです。

 それでは、なぜユダヤ人は優秀なのでしょう。これには諸説ありますが、文化人類学者が主張するいくつかの理由が説得力があるようです。

A. 家庭環境。親は子供が幼い頃から何に関心を示すか、何に優れているかを注意深く観察し、その才能を活かすためならば費用を惜しみません。土地を持たず、追放や移住を繰り返してきたユダヤ人にとって、学問は誰からも没収されることのない宝であり、どの土地に移り住んでも必ず役に立つという伝統的な信念が継承されていました。

B.都市居住型。ヒトラーが政権を掌握する以前のドイツ帝国全体の人口は約6,500万人、そのうちユダヤ人は50万3.000人(ドイツ人のわずか0,77%)で、そのうち14万4.000人が首都のベルリンに住んでいました。これはベルリンの人口の3.8%にあたります。このことからも、ユダヤ人は大都市に住む傾向があったことがわかります。つまり、大都市に住むことで、子供はより豊富な教育機会と文化的知的な刺激を得ることが出来ると親は考えたのです。

C.優秀な者同士の結婚。かつてユダヤ人は家柄、学歴、職業の似たような家庭環境で育った者同士を結婚させることが一般的でした。優秀な遺伝子を持つ者同士の「交配(使うべき言葉ではありませんが)」がユダヤ人の知性に大きな影響を与えてきたと言われています。

 これらのことからユダヤ人が非ユダヤ人から嫉妬され、嫌われたのはまことに理不尽ですが、異なる文化を持つ人間が成功していることを容認できない者は、いつの時代にもいたのです。しかもユダヤ人は学問や芸術の分野でドイツ社会に貢献し、多くの慈善事業にも携わっていたのです。ただ一般市民と違ったのは、シナゴーグに行ったりハヌカーを祝ったりすることくらいで、ドイツ市民と何ら変わったところはなかったのです。それでも人々の心にはユダヤ人への嫉妬や反感が蔓延り、ヒトラーやゲッベルスはそれを悪用したのです。「すべてユダヤ人のせいだ。第一次世界大戦で負けたのも、恥辱のヴェルサイユ条約で賠償金返済に苦しむのも、我々が貧しいのも、空腹なのも、治療に充てる金が無いのも、すべてユダヤ人のせいだ。ユダヤ人は世界支配を目指し、そのためには手段を選ばない。あの莫大な財力も汚れた利潤追求もそのためだ。見るがいい、共産主義者の指導者の多くは皆ユダヤ人だ」ヒトラーがこぶしを振り上げて叫べば、内容が支離滅裂であろうと市民にはどうでもよいのでした。そうしてヨーロッパのユダヤ人600万人が殺害されたのです。

 最初のナチス犠牲者の記念碑に話を戻しましょう。ドイツのどの町を歩いていても、路上にはめこんである10センチ四方のゴールドプレートを見つけることでしょう。そこには例えば「ここに住んでいたのはエリーゼ・ウルマン 1920年生まれ 1943年アウシュヴィッツで殺害」というように、ナチス時代の犠牲者の悲しい運命が記されています。その数は7万5000個、ほとんどがユダヤ人ですが、他にも共産主義者、身体障碍者、抵抗運動グループのメンバー、聖職者、ロマなど様々な犠牲者の名前が刻まれています。この小さな記念碑は『躓(つまず)きの石』と呼ばれ、犠牲者が最後に住んでいた家の前の路上に埋め込まれ、「ここに住んでいた証」が遺されます。これは1992年にグンター・デムニッヒというドイツ人のアーティストが始めたプロジェクトで、デムニッヒ氏の「強制収容所で名前を奪われ、その代わりに番号だけを与えられた犠牲者に名前を返したい」との思いから全ヨーロッパに広まったのです。道行く人がそのプレートを見つけ、読もうとして身をかがめますが、その「頭を下げる行為」もまた、プロジェクトの目的に含まれています。なぜなら当時のドイツ人のほとんどは、犠牲者が強制的にゲシュタポやSSに連れ去られていくことに抗議しなかったからです。『躓きの石』とはいえ、実際につまづくわけではありません。デムニッヒ氏は「心と頭で躓く」観念的なものだと言っています。犠牲者をただの統計的な数に終わらせず、この場所に生きていた記録を残さなくてはならないとの思いから、地元の学校と高校生が中心になって、当時の古い住所録、エルサレムのデータベースなどから犠牲者の記録を探し出す調査を行っています。このプロジェクトはドイツ国内だけではなく、今ではヨーロッパ25ヵ国にも拡大しています。真ちゅう製キューブは施工費を含めて一個120ユーロですから大変な費用となりますが、これは一般市民と企業の寄付金で賄われています。年に二回、アウシュヴィッツ解放記念日の1月27日と水晶の夜の11月9日(ユダヤ人迫害が始まった日)にすべての石が磨かれ、蝋燭の火が灯され、花が手向けられ、祈りの時を持ちます。こちらのサイトにはベルリンの躓きの石マップがあります。https://www.stolpersteine-berlin.de/en/finding-stolpersteine こちらはベルリンですが、他の町のマップも検索できます。ドイツの町で躓きの石に出会ったら、ぜひ立ち止まり、サイトのマップを開いて犠牲者の名前を検索してみてください。その方の人生について読んだ瞬間、ただの金色の小さな石から静かな息遣いが聞こえるかもしれません。 

躓きの石
グンター・デムニッヒ

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