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『ロリータ』ウラジーミル・ナボコフ 感想

こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。……」
世界文学の最高傑作と呼ばれながら、ここまで誤解多き作品も数少ない。中年男の少女への倒錯した恋を描く恋愛小説であると同時に、ミステリでありロード・ノヴェルであり、今も論争が続く文学的謎を孕む至高の存在でもある。多様な読みを可能とする「真の古典」の、ときに爆笑を、ときに涙を誘う決定版新訳。注釈付。
紹介文より

ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・ナボコフの『ロリータ』です。アメリカへ亡命したロシアの作家であるナボコフの代表作。大変有名な古典作品ですが、出版までは苦難の道でした。
ナボコフの父親は旧ロシア帝国の政治家である、ウラジーミル・ドミトリエヴィチ・ナボコフです。ロシアの自由主義者であり立憲民主党幹部として活躍していましたが、ロシア革命において立場を追われ、ベルリンへ亡命します。亡命先で友人の政治家をかばい暗殺者に殺されます。
ナボコフは父親より少し先に西欧へ(父親が元来西欧派であったため)亡命しました。父親がベルリンへ逃れたタイミングで合流しましたが、すぐその年に上記の悲劇が起こります。
もともと裕福な生活で恵まれた環境下にありましたが、パリへ移り、さらにアメリカに帰化する頃には質素な暮らしへと変わっていきます。

ロシアに住んでいた時から文壇に立つことを目指していました。そしてベルリン、パリでは「シーリン」という筆名で小説を発表し、ロシア亡命作家として高い評価を得ることになります。この時代、つまり1918年~1945年(亡命前からアメリカ帰化まで)はロシア内に留まらず二度の大戦争が起こるほど、世界が揺れ動いた時代です。
先を見据えたナボコフは「英語での執筆」を試みます。そこで書き上げたのが『ロリータ』です。

この苦労を重ねて執筆した作品はスムーズな出版とはなりませんでした。内容を享受できるアメリカの出版社が無く、ヨーロッパでの出版を模索し始めます。そこでパリの出版社「オリンピア・プレス」と出会い、ようやく出版に至ります。ここからナボコフの手を離れて、大きく作品が世に顔を出し始めます。
この「オリンピア・プレス」の看板作品は「ポルノ小説」です。世の人々は『ロリータ』という作品をポルノと認識し、読み始めます。しかし紹介文にもあるように、これは真の古典文学。すばらしい筆致と完成度に、イギリスの小説家グレアム・グリーンが大絶賛します。ここから賛否合戦になり、一気に話題書へ仲間入りし、ついにはアメリカでの出版に辿り着くことができました。

元々ロシア語で書かれた『海辺の公園』という作品が、『ロリータ』の原型となっています。しかし、元の物語はもっと簡素で、結末も違い、ナボコフ自身も納得のいかない出来栄えでした。その後、妻ヴェーラとのアメリカ国内旅行の刺激や閃きが積み重なり、『海辺の公園』に、どんどん文学的厚みを帯びさせて、『ロリータ』を完成させました。
この「文学的厚み」を英語で帯びさせることに、苦労し、興味を覚えた結果が、ナボコフの魔術的な言語使いを生まれさせたのです。

私の個人的な悲劇は、むろん誰の関心事であるはずもなく、またそうであってはならないが、私が生得の日常表現や、何の制約もない、豊かで際限なく従順なロシア語を捨てて、二流の英語に乗り換えねばならなかったことで、そこには一切ないあの小道具たちさえ魔法のように使えれば、燕尾服の裾を翻しながら、生まれついての奇術師は独特の流儀で遺産を超越することもできるはずなのだ。

これは、あとがきに近しいものにナボコフが最後の締めとして口述している文面です。内容は「ロシア語に翻訳すると、もっと良い作品になるぞ」という意味合いですが、注目すべきは「二流の英語」という表現です。
単純に使い慣れていない、という意味合いだけでは出てこないこの単語ですが、背景にある思いは何でしょうか。これは祖国ロシアに対する誇りであり、本質的に望んで使用している言語ではないという荒みからきています。
ナボコフは「亡命作家」でありながら「祖国を想う」稀有な人間でした。これは父親の生き様、死に様、そのどちらも誇らしく想い、そして「ロシア革命以前のロシア」を印象として持ち、叶わぬ夢として祖国に想いを馳せる中、アメリカで英語文学を執筆する苦悶の顕れであると言えます。

この想いが筆致に滲み出たのか、純粋に作品の内容がそう思わせたのか分かりませんが、『ロリータ』は「反米的」であると非難する意見が噴出します。しかし、ナボコフは普遍性を説いています。アメリカ的というのは道徳的という意味であり、アメリカを背景に、アメリカを描いて反米的というのは、ずれている、という論です。
もちろん、主人公であるハンバート・ハンバートはアナーキズムに生きる人であり、サイコパス的で、自尊心が高く、紳士と自負する異邦人です。ですが、こういった人間性はアメリカでは存在しないという論理はおかしく、英雄然とした道徳漢が活躍するのがアメリカ的だとする意見を盛大に揶揄しています。

さて、テーマとなっている「少女性愛」についてですが、世間ではかなり厄介なことになっています。認識において。

ロリコンという言葉だけが全世界をたちまち走ったのは、この物語にはハンバートに代表される男性に巣くう忌まわしい少女好みというものが、いかに普遍的なものだったかを告げる秘密が如実に暴かれていたということなのである。

ある有名な著述家の『ロリータ』書評における一文です。そしてこのような事は全世界で起こっていません、間違いです。もちろん「ロリコン-Lolicom」という言葉が、という意味ではなく。一部だけ正しいとするなら、「普遍的なものだった」という一点のみです。
この少女性愛は、医学疾患における小児性愛「ペドフィリア」に含まれます。ハンバート・ハンバートは少女のみでしたが、少年のみ、或いは両方という症状もあります。これは1880年代から既に提唱され、研究されている内容です。
では、この作品を由来とする「ロリータ・コンプレックス」、「ロリコン」とは何か。これは誤解から生まれた和製英語であり、性癖の一つとして使用されています。
ラッセル・レイモンド・トレーナーという心理学者の「The Lolita Complex」と言う作品の邦訳が起因とされています。実はこの作品では「中年の男性に少女が憧れる」という、現在使用されている意味と間逆の言葉でした。それが、読者や作家などが間違った解釈を広げ、現在の意味でいわゆる「誤用」されるに至っています。
「誤用」というのは、二重の意味であり、もう一つは「コンプレックス」という言葉です。心理学では「complex=感情複合体」とされており、決して「劣等感」ではありません。この誤用にも原因があり、アドラーが提言した「劣等コンプレックス」という観念を日本に持ち込まれ、これをマスメディアが誤って「コンプレックス=劣等感」と解釈し、広めてしまった為、「マザーコンプレックス」「学歴コンプレックス」の誤用が多発する現在に繋がっています。

本書は、紹介文にもあるように数多くの要素を持っています。官能的、純文学的、モダン的、遊戯的、喜劇的、パノラマ的、悲劇的、ミステリ的、風俗的、風刺的……。これらの要素をすべて詰め込み、一つの作品として成り立たせているのは「ナボコフの魔術的な言葉使い」なのです。

この小説に学びうる第一は、いまもいったとおり、小説のなかの一部分から次の部分に移る際の劃然たる書き分けと、そこからのスピードである。

解説での大江健三郎さんの言葉です。
この作品は約550ページ程ですが、ものすごいスピードで進みます。それぞれの瞬間で強烈な印象や、描写が濃厚でありながら、段落がかわると一足飛びに話が進みます。そして「魔術的」なナボコフの筆致で、喜怒哀楽を混ぜこぜにされながら、ハンバート・ハンバートとロリータの行く末を強制的に追い掛けさせられます。

この作品には「序」という序文があります。最後まで読んだ方は、必ず再読してください。「序」だけでも。(5ページだけでも。)
「序」に限らず、再読で気づく重要なことが、あちこちに敷き詰められています。

私は教訓的小説の読者でもなければ作家でもないし、ジョン・レイがなんと言おうと、『ロリータ』は教訓を一切引きずっていない。

このようにあとがきに近しいもので述べるナボコフは、あまりに率直で、あまりに魔術的であると感じます。

今回はアメリカ文学とカテゴライズしますが、亡命作家であり、ロシア作家であるナボコフの代表作であり問題作。未読の方はぜひ一読してみてください。
では。


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