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「話す」と「聴く」はどちらが大変か?

うちの家族は、ようしゃべる。
そのため、どちらかというと「聴く」側になることが多い僕。

バイト先へ行っても、ようしゃべるおじさん(おじいさん)が何人かいらっしゃるので、相手が気持ちよく話せるようテキトーに受け答えをしている。

考えてみれば、どんなTPOでも割とそういうポジションに落ち着いている気がする。
会話のキャッチボールはていねいにすることを心掛けているが、自分がファーストボールを投げる(話を振る)ことは、ほとんどない。まぁ、ただのコミュ障なんだけど。

だから、「何か話してよ」とか言われると、すごく困る。
いや、「何か話してよ」て。会話の振り方がめちゃくちゃ下手じゃない?お前を楽しませるために存在しているのではないのだよ。わかったか!じゃあ帰れ!

・・・おっと、過去の切ない思い出に浸ってしまったようだ。

「話す」ことが苦手な代わりと言ってはなんだが、「聴く」ことに重きを置いているつもりではある。
実際、家でもバイト先でもそれ以外でも「話しやすい」とか「聞き上手だね」とか言ってもらえるので、とりあえず良しとしておこう。


このように、僕は「話す」よりも「聴く」方が得意なわけだが、「聴く」方が楽というわけではない。

「傾聴」という言葉がある。相手に耳を傾ける、つまり、相手に意識を向けて聴くという意味だが、これがなかなか難しい。

基本的に相手のペースで会話が進むので、情報の量やスピードに翻弄されてしまうこともある。
話し手によっては、主語がなかったり、時系列がめちゃくちゃだったりで、話の本筋が理解できないことも少なくない。

自分の意見を一旦置いて相手の話を「聴く」のは、実は「話す」ことよりも大変で体力を消耗するのではないだろうか。


では、「話す」方はどうだろう。
僕の口下手は考慮しなかったとしても、自分の考えていることを「話す」ことは、簡単ではない。

たとえば、幼児なら幼児、中学生なら中学生、老人なら老人と、相手の知識量などを考慮して「話す」必要がある。えらそうな言い方をすれば、「IQを合わせる」といったところか。
そうしなければ、「話す」だけで「伝わる」ことにはならないからだ。

やはり、「話す」ことも大変だった。


結論としては、「話す」ことも「聴く」ことも、どちらも大変であることに変わりない。
どちらも、ていねいになればなるほど難しくなる。
考えてみれば当然のことだが、どれくらいの人間が意識しているのだろうか。

僕は言葉の重みを知っているつもりだ。
言葉をなおざりにすると、知らず知らずのうちに人を傷つけ、しっぺ返しを食らうことになりかねない。
これは、僕が物書きだからとか関係なく、言葉を使う人間に必要不可欠な心得だと考える。

言葉の重みを考えることは面倒くさいだろうが、これを「見ざる」者に、円滑なコミュニケーションができるはずもない。
しかし、現状そういった人間が多いのも事実で、心ない彼奴らによって大勢が傷つけられる未来を、僕は危惧している。


コミュ障もコミュ障なりに、いろいろと考えているのである。


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