見出し画像

平成羊羹

「平成最後の~」という表現を見聞きするようになって久しい。平成ももうじき終わり、令和という新しい時代が幕開けようとしているのだから、当然といえばそうだ。私の記憶では、「平成最後の夏祭り」に始まって「平成最後の紅白歌合戦」があり、そして「平成最後の桜」だった。最初のうちはそれを「ふうん」といった風に聞いていたものの、年が明けてから、そもそも新元号のスタートがいつだかすら把握していなかった(5月1日ですね)私でも、だんだん焦ってくるようになった。

というのは、私が昭和63年生まれで、つまり今までの人生のほとんどが平成だったからだ。もちろん、幼いころ、平成が始まったばかりのころはどことなく「昭和寄り」だったように覚えている。しかし、建前としては、生まれてから今に至るまでのほぼすべての時間を、平成が明けて進んでいくのと共にしてきたということになる。

そのため、平成が終わるというのは、どこか他人事ではないような感じもする。何か大変大きなものが終わるような気がしてならないのだ。

無論、時代が平成ではなくなったとしても、時間は相変わらず続いていく。羊羹を切り分けたり、切り離された電車の車両を車庫に戻して出発したりするわけではないのだから。私の三十年間がどこかに猛スピードで消えていってしまうということではないし、新時代が始まったからといって何か特別なことが起きるわけでも、それこそドラゴンが出現するわけでもない(しかし、少しくらいは期待している)。

だから、過ぎ去っていく時代を振り返ってみようとか、花を手向けようとかいうのもかえって野暮なことなのかもしれない。ただただ、今までと変わらず続いていく時間を、月並みな言い方ではあるけれど、自分なりに歩いていくしかないのだろうと思う。

最近は、そんなことを、新しい時代がじりじりと近づく中、何だか必死に言い聞かせながら過ごしている。

令和になってからだいぶたったときにこの文章を読んだら、私はどう感じるだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?