見出し画像

昨日の私と今日の私は別人?~子どもに嫌われるための哲学~

先生:それでは宿題を提出してください。忘れてしまった方はいますか?

生徒:せんせい!すみません、昨日宿題をやり忘れてしまいました!

先生:では、しかたないですね。追加課題を今日中にやればよしとしましょう。

生徒:ご配慮ありがとうございます。しかし、昨日の私は今日の私とは別人とも言えませんか?だとすると、今日の私が追加でペナルティを課されるのは納得いかないのですが。

先生:なんですか藪から棒に。

生徒:いえ、簡単なことですよ。昨日の私は今日の私とは少しは違っているではないですか。だから、昨日の私の罪を今日の私が償うのは納得いかないんです。

先生:と、言いますと?

生徒:例えば、昨日の私の身体を構成していた水分子は入れ替わって、今頃は他人の身体を構成したり、大気のはるか上空にあるかもしれないですし、記憶も昨日と今日とではもちろん違いますし、何なら性格ですら多少は変わっているかもしれません。私は昨日観たドラマでいたく感動をして、今日の私は昨日と私とは違って、非常に穏やか気持ちですし。まあ、そのせいで宿題ができなかったんですけどね。

先生:いつそんな知恵をつけたんですか。壮大な言い訳ですね。

生徒:まあまあ。

先生:ふうむ。いいでしょう。少しお付き合いしましょう。あなたは身体や記憶が異なる場合、厳密には同じ人間とはいえないのではないか、と言いたいのですよね。となると、例えば、秀吉が農民のままで太閤殿下にならなかったとしたら、それは秀吉ではなく、別人ということですか?

生徒:そうなりますね。私たちが秀吉と呼んでいる人間とは別人でしょう。だって、私たちが秀吉と呼んでいるのは太閤の秀吉ですから。そのほかの在り方なんて、同一の人間、とは言えないと思います。

先生:では、あなたは後悔をしたことはありますか?

生徒:そりゃあありますよ。

先生:変ですね。あなたの理屈が正しければ、およそ後悔などできないのですが。

生徒:なぜですか?

先生:後悔とは、過去の自分が事実とは異なることをした方がよかったのに、という罪悪感や損をしたような不快感のことです。これは、昨日宿題すればよかったのに・・・と考え、不快な気持ちをもつことに相当します。もし、今の自分が過去の自分と別人なのだとしたら、このような感情をもてるでしょうか。言ってみれば、秀吉自身ではなくあなた自身が、秀吉は朝鮮に攻め込むべきではなかったのに、と思うことにかなり似ている状況です。それでも、後悔特有の罪悪感や不快感をもてるでしょうか。少なくとも、普段あなたが感じる後悔の念とは大きく異なるのではないですか?

生徒:そう思うと、他人事ですね。

先生:まあ実際、そう思うことも可能ですし、実際、過去の自分を他人のように見立てて生活しているケースは相当ありえると思います。あるいは、心が乱される時だけそう思って、それ以外の、例えば、自分の過去の栄光は現在の自分の栄光だというような、都合がいい場合のみ、過去と現在の自分を同一視するダブルスタンダード的な人もいるでしょう。ただ、他人に面と向かって言う人はかなり少ないと思います。

生徒:そうなんですか?

先生:そうですね。無責任ですからね、文字通りの意味で。責任とは、過去のある人間と、現在のある人間を同一視しなければ成り立ちません。過去の悪い行いを、現在の人間が償うべき罪として、割り当てることができなくなってしまいますから。

生徒:私が宿題を忘れた言い訳に使えた理由がこれなんですね。

先生:そうですね。道徳にはこの同一性の理解が必須でしょうね。おかげで、みんな罪の意識にさいなまれることができるわけです。ただ、実際、過去の自分を今の自分と同一視しない理由もたくさんあるわけです。身体を構成する分子は入れ替わっているし、記憶や性格も変わっていきます。何が失われたら同一性も失われるのか、という議論も、まあ分析哲学界隈では盛んですよね。得てして、道徳的文脈が織り込まれてノイジーになりがちですが。不可識別者同一の原理を説いたライプニッツという人もいましたが、この点でいえば、過去の自分と今の自分は、違いがあるので識別できてしまいますから、厳格に運用してしまうと道徳が崩壊しますよね。

生徒:ということは、私は追加の課題をやらなくていいということですね!

先生:ご自由にどうぞ。私が許したとしても、世間が許さないですけどね。道徳と世間は、罪と後悔、あるいは日本的には恥が要ですよ。それらをしない人間を許しはしません。それでも、渡り歩いていけるヤンキー適正があるのであれば止めはしません。先生として言えることはここまでですね。

生徒:手厳しいですねー。

先生:まあ先生なので。用法と容量を守って正しくお使いください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?