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「なぜ」という問いは、どういう問いなのか

「なぜ〇〇なのか?」という形の問いがある。たとえば「なぜガラスに一定の力を加えると割れるのか?」であったり、「なぜあなたはガラスを割ったのか?」であったり。あるいは「なぜ世界が存在するのか」であったり。
そもそも「なぜ」という問いは一体何を問うているだろうか。たしか、ウィトゲンシュタインが『青色本』でも言及していたが、この問いは二つの種類に分けられる。この二つの種類はしばしば混同されているがゆえに、哲学的にも混乱を招いているが、厳密に分けることによってクリアに整理することできる。

「なぜ」はいったい何を問うているのか。
まず一つ目は「原因」である。「原因」とは、直感的な理解としては、物理的な説明と言ってもよい。「なぜガラスに一定の力を加えると割れるのか?」は、言いかえると「ガラスが割れるという現象に先行する状態とはどういったものなのか?」ということである(※必ずしも因果関係を読み込む必要はない。ここでの関心ごとではない)。
この「なぜ」に対する答えが「原因」であり、特定の状態を指すことになる。故に「原因」は十分に記述でき、説明可能なものである。

二つ目は「理由」である。「理由」とは、ありていに言えば「意志」である。一つ目の「原因」とは異なり、先行する状態を指すものではない。問いの形は「なぜあなたはガラスを割ったのか?」であったり、「なぜこの世界はガラスが割れる物理法則が存在するのか」でもよい。
「理由」のポイントは、物理的な説明を超えているということだ。たとえば「なぜあなたはガラスを割ったのか?」という答えが、「ハンマーで殴ったからだ」では、答えになっていない。
では、「むしゃくしゃしていたから」という答えはどうだろう?この答えは、「心理状態」を示すものだが、この答えの解釈は読み込むストーリーによって二様に解釈される。一つ目は「原因」としての答えと解釈する方策である。「むしゃくしゃしていた」という心理状態が物理的な身体を動かしてハンマーを動かしたのだ。(※なお、「心理状態」が「物理的」かはここでの関心ごとではない。「心理状態」が「原因」として世界のある状態に組み込むことが可能であれば十分である。たとえば、「心理状態」とは結局は脳の状態のことだ、等。)
一方で、「むしゃくしゃしていた」としても「ガラスを割らないことも選べたはずだ。それなのになぜガラスを割ったのか?」と反論することができる。むしろ、人が有責である際にはこの反論が可能でなければならない。だからこそ、人は物理法則を超えて世界を変える「意志」という特殊な力をもつものだと認識されている。この問いが成立するか否かが、「意志」という特殊な力を認めるかどうかの分水嶺となる。

さて、「理由」と「原因」は、双方にまったく影響を及ぼさないため、両者が併存することが可能である。だからこそ、同じようにむしゃくしゃしていても、ガラスを割ることと、割らないことが選択できる。まったく同じ先行する「むしゃくしゃする」という状態から、異なる結果に至ることができるというわけだ。だから、同じ単語で「なぜ?」と問うていても、まったく異なる種類の質問をしていることになるのだ。
この二つの差は、世界の状態に影響を与えるか、世界の状態を「超えて」世界の状態に影響を与えるかの差と言ってよい。前者は簡単に理解できるが、後者は何やら神秘的な感覚を覚える。それは人間には余りある力なのではないか?
だが、まさに「自由」とはこのことなのである。世界が物理法則に支配されているのであれば人間が自由意志によって世界に影響を与えることが不可能になる。まさに決定論と呼ばれる考え方だが、この場合、人間は自由意志をもたず、自分が行為を選択しているという感覚は幻想ということになる。
この余りある力は、それもそのはず、その原型は神の世界創造だからである。

しばしば、「なぜ世界は存在するのか?」という問いに「ビッグバンがあったからだ」と「原因」で答えることがある。だが、この「なぜ世界は存在するのか?」という問いは「原因」を問うているのだろうか。言いかえると、先行する状態を問うているのだろうか。おそらく違うだろう。
「なぜ世界は存在するのか?」という問いは「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いに変形される。さらに、哲学の伝統では、「たくさんの可能性のうち、このような世界が現実になのはなぜか?」という問いに変形され、ライプニッツから現代形而上学にいたるまでこの変形態で議論がなされている。「可能世界A、可能世界B、可能世界C・・・そして中身が何も存在しない可能世界Xのうち、なぜか可能世界Aが現実世界として選択された。それはなぜなのか?」という変形態である。
この議論はもちろん「原因」を問うているのではない。可能世界Aに至るために必要な「原因」は結局はさらに「なぜその原因がそもそも存在するのか?」問い返されてしまう。問いたいのは、「理由」なのであり「意志」なのである。世界創造は一般に「神」がなすものなので、神学的な議論とされるが、もちろん「神」でなくてもよい。だが、ここで求められている答えが物理的なものではない、ということは忘れてはならない。となると結局のところ、メタフィジカルと言わざるを得ない神秘的な何ものかを求めた問い、ということになるだろう。(なお、永井均氏的には「メタレアール」という表現が適切であるが、議論をわかりやすくするために「メタフィジカル」とした)。

「理由」はしばしば「セレクター」と呼ばれ、「選択するもの」の意である。だが、議論不要ですぐにわかることは、この「理由」を「世界のある状態」で答えることはできない、ということだ。むしろ積極的に「世界のある状態」とは関係しない、がゆえに「世界のある状態」と両立しえるものが、「理由」足りえるわけだ。つまり、世界の状態が何であれ、そこに存在させられるものが「理由」になるというわけだ。ライプニッツはこれを「神の善性」と説明したわけだが、もちろんこの善性はこの世界の内部に存在するあらゆる善いとされるものとは、まったく関係がない。人を助けたり、使いやすい道具だったり、正しい知識だったり、美しい絵画だったりとは、まったく関係がない。だから、この世界が選ばれた理由を、私たちが理解できる善性で説明することはできない。もし説明できてしまえば、それは、「理由」ではなく「原因」になってしまう。結局のところ、「なぜその善性がセレクター足りえるのか」という問いを誘発せざるを得ない。「理由」は常に私たちの理解を超えてしまうのだ。ライプニッツが言った「神の善性」とは私たちが知ることができるような善性ではないのだ。

蛇足だが、だからこそ、むしゃくしゃしててもガラスを割ったり、割らなかったりすることができる、この不思議な力を、私たちは理解することができない。それは何らかの内容をもって説明することを拒むような、神の世界創造に類する力だからだ。


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