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食べるということは生のために死を取り込むことで、感謝の中には弔いも含まれている。

 全く難しく考えすぎだよと自分でも思うけど、突然そんな気持ちに襲われたのでここに書かせて欲しい。

 事の発端はアレルギー持ちの友達とのランチ。塩で食べるからお肉にソースなしでってたしかに伝えてたんだけど、うっかりする事誰でもあるよね。お皿が来たらかかってた。

事情を伝えたら謝ってくれて嫌な顔しないですぐにお皿を下げて新しいのを持ってきてくれることになった。だから友達も私も全然お店は問題ないしどっちかというと感じ良かったと思ってる。

けど、下げられたお皿が気になるのよね💦。あのお肉捨てられちゃうんだろうか?誰かのまかないになってたらいいのにな。もっと強くアピールしておけば良かったのかと2人ともお肉に申し訳ない気持ちになってしまった。最後はお肉になるために、それでも大事に育てられてきた牛だもの…。

正直こんなこと考えてたら、毎食毎食やってられないとも思う。肉に限らず野菜だってそうなんだ。

お肉や魚、野菜の気持ちになりすぎないように箸があるんだ!

急に理解した。

箸は食べるものと食べられるものの境界であって結界である。

ごちゃごちゃ考え込んじゃって何も食べられなくなってしまわぬように箸がある。

それから「いただきます。」
これは箸より向こうの世界への感謝の言葉である。
食べ物となってくれたもの、食べ物に関わってくれた人(生産者、流通、料理人、食べさせてくれるために稼いでくれた家の人、また食事に出会えたご縁)。

あんまりにも感謝の対象が多いので、「いただきます。」って誰に言ってるのか言わないんだ!(これはありがとうやごちそうさまにも言える。)

で、この感謝の気持ちの中には
「私はあなたの栄養をしっかり受け取って、決して無駄にはしませんから、どうぞ私の細胞の一部となって私と共に生きてください。」という意味が込められていて、食べ物が「よし、それだったら仕方ない。」って納得してくれる、食べ物が成仏できる弔いの意味が込められているのではないか?

今生、私が食べるもので、あなたが食べられるものだけど、次の世では私が食べられるものかもしれない。礼儀というのは大切だ。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ちょっと明るく考えてみよう。

トーナメント形式のスポーツ観戦とかで、正々堂々いい試合して負けた時、次の試合から相手チームを応援したくなる時ってあるよね?

目指すはあんな感じだよね。

食べ物にきちんと誠意を持って接すれば、きっと私達の身体を応援してくれるんだと思うんだ✨🌈🎈☺️

私の考えすぎに付き合って
最後まで読んでくれてありがとうございます💓

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