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新海誠『すずめの戸締り』そして、あの日のこと。



「ねぇ、あの日、何してた?」

私たちの中には共通して、たったこれだけの言葉で ”あの日” が、どの日のことを指すものなのかを、感じ取れてしまう日があります。

その”あの日”から、もうすぐ、12年という月日が、経とうとしています。

あの時代に生まれた子どもたちが、もう12歳になるのだと思うと、本当に、随分と時間が流れたのだと実感します。12年といえば、人が1人、小学校を卒業するだけの歳月です。


津波で骨格だけになった家屋(宮城県東松島市)(2011年03月19日) 【時事通信社】


私が0歳の冬に、阪神淡路大震災が起きました。

起きました、というよりもそれは、私の中の感覚としては"起きたらしい"という表現の方がしっくりときます。死者6,000人を超える戦後最大の被害であったこと、そして、災害医療として初めて、現場で命を見極める“トリアージ”が行われたということを、私は『教科書の中の話』として、知りました。「テストに出るから覚えなきゃ」というような、本当に年表の中の、歴史としての出来事の一つとして知った震災でした。

命を助ける順番を決める、命を助けることを諦める選択をする、それを、神様でもなんでもない人間が決めなければならない、そんな異常事態に陥ってしまうのが、災害です。

6,000人を超える失われゆく命を前にして、どれほどの悲しみがそこにあったのか。「6,000人が死ぬ」って、ぞっとするくらい、本当に計り知れない人数です。

東日本大震災があった当時、0歳だった子どもたちが、もうすぐ小学校を卒業する年になります。そしてその子ども達にとってのあの日の記憶は、私が阪神淡路大震災に感じていたような、そういう『教科書の中の話』『歴史の中の出来事』へと、移り変わっていっています。まだ、私にとっては、つい最近の出来事のようにも思えるのに、実際には、それだけの月日が、流れたということです。それだけの日々を、私たちは、過ごしてきたのだということです。


2022年11月11日、新海誠監督最新作、映画『すずめの戸締まり』が公開されました。

公式からは、このような告知がありました。

「もしかしたら賛否が別れる作品になるかもしれない。伝えたいことが、伝わらないかもしれない」新海監督は、公開直前まで、そんな不安がずっとあったと、語っています。そこまでしてでも、作品を通して描きたいことがある、その事実だけで、もう十分だと、そう思ってしまいますが、私がこの作品を通して考えたことを、ほとんど自分のために、自分自身の今の言葉で、書き留めておこうと思います。


以下、物語の根幹に触れます。作品を先入観無しに楽しみたいという方は、どうか映画体験を終えてから、また読みに戻って来ていただけたら嬉しいです。


♢♢♢


映画『すずめの戸締まり』は、九州に住むすずめという名の少女が、草太との出会いをきっかけに、災いをもたらす扉の存在を知り、戸締まりの旅に出かける物語です。草太は、震災を鎮める「閉じ師」の血筋をひいていて、各地で開いてしまっている扉に鍵をかけ、戸締まりをする役割を担っています。宮崎から出発し、愛媛、神戸、東京と日本列島を北上し、最後は東北の地まで行く。その中で、すずめ自身が、あの東日本大地震で被災した震災孤児である経験と向き合う過程も描かれます。

新海作品の前作『天気の子』では、少年帆高が、故郷である離島からフェリーで東京までやってくるのですが、まず所感として、すずめと帆高の旅の違いを随分と感じました。

すずめは、旅の途中、一度も衣食住に困っていないのです。高校生の女の子が、スマホひとつで故郷を飛び出したのに、帆高のようにマックで3日間、同じ飲み物だけを飲んでしのぐこともなかったし、なけなしのハンバーガーを貰うこともなかった。「こんな所にいると邪魔だ」と酷い扱いを受けることもなく、あたたかい人達と出会いながら日本の地を歩いていく。それどころか、愛媛では旅館に泊めてもらい、服をもらい、バッグをもらう。神戸でも、スナックに泊めてもらい、まかない料理を食べて、別れ際には帽子をもらう。東京でも、草太さんの家があり、心配してくれる草太さんの友人がいて、すずめのことをなんの疑いもせずに鍵を渡してくれるローソンの店員さんがいて、ボロボロになっても、草太さんの靴を借りて、また歩き出す。

その一つ一つの描写が、4歳の時、あの震災で被災したすずめが辿ってきた人生への希望のように見えて、旅の途中で、すずめの衣食住がちゃんと守られていたことに、救われたような思いがありました。

この物語のラストに、かつて迷い込んだ常世で、幼い頃の自分自身ー震災孤児になってしまう4歳当時のすずめ に向かって「今はどんなに悲しくてもね、すずめはこの先、ちゃんと大きくなるの」と、声をかけるシーンがあります。

「だから心配しないで。未来なんて怖くない。あなたはこれからも誰かを大好きになるし、あなたを大好きになってくれる誰かとも、たくさん出会う。今は真っ暗闇に思えるかもしれないけれど、いつか必ず朝が来る。朝が来て、また夜が来て、それを何度も繰り返して、あなたは光の中で大人になっていく。必ずそうなるの。それはちゃんと、決まっていることなの。」

この旅の中で、まさにすずめは、すずめのことを大好きになってくれる人たちにたくさん出会い、朝が来て、また夜が来て、光の中でちゃんと大人になっていきます。あの言葉を、他の誰から言われるでもなく、明日が積み重なった先の未来にいる自分から言われたことで、すずめは、本当に救われたんだと思うと、この12年の日々を、ただ、生きてきてくれてありがとうと、そう思わずにはいられませんでした。


去年、震災から10年というひとつの節目に、被災した子供達の10年後の番組が放送されていたのを思い出しました。

お母さんと妹2人が津波に流されて、自分とお父さんだけ生き残った小学生の男の子がいました。震災から3年が経ち、その子のお父さんがインタビューされた時、インタビュアーに向かって「アイツ、家族のこと忘れちまったんじゃねぇかと心配するくらい、あの時のことも、家族のことも、なんも話さなくなったんだ」と、語っていました。

さらに7年が経って、もう一度同じお父さんと少年に対面した時、大学生になったその子は、こう、口を開きました。

「あのあとも、自分はただ、普通に生きていただけ。日々を普通に生きていたら、面白いこととか楽しいこととかだってそりゃ、あったけど、楽しいことがあっても楽しい顔をしていいのか分からなかったし、野球やりたくても自分だけ楽しんでるのも違うのかなとか、でも一瞬でも苦しんだり悲しんだりしてしまったらもう止まらなくなりそうで、お母さんだって妹だって帰ってこないし、思い出したら自分自身を余計悲しみの方に引きずり込んでしまいそうで、何を言ったって、正解は無いから、あの時、言葉を、何も言えなかった」

そう、言葉にしていました。こういう、閉ざされた向こうにあった"言葉"が、どれほどあの地にあったのだろう。口にしたくて出来なかった思いの渦が、本当は言いたかったけど言えなかった言葉が、あの地で生き延びた人たちの本心が、どれだけ、そして今も、この日本列島に渦巻いているのだろう。

『すずめの戸締まり』を観た各地の人々の感想を、たくさん読みました。

中には、こんなものもありました。

「四国に住み将来的に南海トラフで被災者となるだろう自身にとって、すずめの戸締まりは未来の話でもあり、日々をつなぐ言葉を見つめ直すきっかけにもなりました」

これを読んだ時、私の中で、何かが崩れるような思いになりました。

「もう、やだよ。こんなの、もうやだよ!」

すずめがそう言いながら、地震を止めるために、草太を要石としてミミズに刺した時の気持ちが、自分の中に、ガーーーッと音を立てて入ってきた感覚になりました。

いつか無くなってしまうかもしれない地があって、避けては通れない震災がこの国ではこれからも必ずどこかで起こり続けて、それが自然と共存することの定めなのだとしたら、そんなのって。

もう、こりごりだ。

そう思う私の中に、今度は別の角度から、あの時の帆高の感情が重なるようにして入ってきて、ガタガタと、本当に、身体の震えが止まらなくなりました。

「もしも、神様がいるのならば、お願いです。
もう十分です。もう大丈夫です。僕たちは何とかやっていけます。だからこれ以上、僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないでください。神様、お願いです。僕たちを、ずっとこのままでいさせてください」

ずっとこのままでいさせてください。

大好きな日本で生きていたい。
大好きな人たちを失いたくない。
できれば家族にもずっとずっと長生きしていて欲しいし、叶うのならば自分の子どもにもいつか会ってみたい。些細な日常でいい。多くは望まない。普通の幸せでいいから、だから、大切な今が、未来永劫ここにあって欲しい。

そう、願ってしまうこの思いは、あの時、津波に流されていってしまった人達の思いでもあるんじゃないかって。

同じようにして無念にもあの震災で飲み込まれていった人たちの思いも願いも言葉も全部、あの海に、あるんじゃないかって。


だけど、もう、それは叶わない。

死ぬって、そういうことだから。


3年生の教室では、発生時刻を指したままの時計と「卒業式まであと1日。離れたくないよ」などと書かれた張り紙があった(宮城県南三陸町戸倉中学校)(2011年03月19日) 【時事通信社】



♢♢♢


復興って、人の手でしか成し得ない。
瓦礫の撤去をしながら、中から腕や足が出てくるような光景を、布団にぐるぐる巻きになった状態で、眠っているように亡くなっていたおばあさんの映像を、遺体安置所に置かれたまま誰にも確認されることのなかったご遺体を、電力不足で火葬場が機能停止となり、無念にも冷たい土の中に土葬として埋葬されていくご遺体の列を、ニュースを通して、ただただ呆然と、見つめていることしか出来なかったのが、高校1年の春のことでした。

私は、なんにも出来なかった。
復興は、人の手でしか成し得ない。それを十分に分かっていた上で、高1の頃の私には、何も出来ませんでした。衝撃が大きすぎたが故に、画面の向こうの出来事のようにも見えました。海のない長野県にいた私にとって、町が海に飲み込まれていくその光景が、同じ日本で起きている出来事なのだとは理解し難い、理解したくない映像でした。

だけど、ひしひしと伝わってくる日常の変化も感じていて、ACジャパンのコマーシャルしか流れなくなったテレビに、哀悼の意を示す形で中止されたまま消滅してしまった地元のお祭りに、福島県産のお野菜がやけに安くスーパーに並び始めたことに、本当に起きたことなのだと、確かに何かが変わってしまったのだと、現実を突きつけられた日々が過ぎました。

高校生の私にとって、東北は、遠い町でした。
ボランティアにも行かなかったし、物資も送れなかった。コンビニの募金箱に入れる100円が、精一杯の、気持ちでした。

それでいつしか『結局何にもできないまま終わっちゃったな』と、そう思うようになっていたのです。終わってなんか、いなかったのに。

あの震災で生き延びた、共に明日も生きていく人たちに、当時はこのようにして思いを馳せることが出来ませんでした。


「戸締まり」というのは、大切なものを守るためにある行為だと思います。

長野にある私の祖父母の家の玄関は、いつも扉が開いていました。戸締まりが、されていなかったのです。夜でも、家を空けるときすらも、誰も鍵をかけない。それは、守るべき大切なものが家の中に無いという意味ではなくて、ただ、泥棒という存在を恐れていなかったのだと思います。それは「油断」という言葉に置き換えられてしまうのかもしれませんが、長野の中でも、さらに山奥の集落に住む祖父母の中には、大切なものがいきなり誰かに盗まれるなどといった感覚が、ただ、無かったのだと思います。人を、心から、信じていたのだと思います。

だけど、そうやって、ある日いきなり大切なものが無くなるということを、泥棒のせいとしか現実的に想像できないで生きてきたことが、震災被害を直接的に受けたことのない、私の全てだったと言えるでしょう。

ちゃんと戸締まりをして家を出ても、帰ったら、家ごとさらわれてしまうことがあるだなんて、私には、想像すら出来ませんでした。

守りたい生活があって、守りたい家族がいて、守りたい思い出があって、そうしてそれらを守るために鍵をかけて家を出たのに、家ごと、町ごと、形もなく流されて、崩されて、無くなってしまう、そんなことが、あるだなんて。

津波で壊滅した宮城県南三陸町(2011年03月13日) 【時事通信社】



あれから、時間だけは経ちました。

そして、この世界に、また新たな試練が訪れました。

『すずめの戸締り』制作時を振り返って、新海監督は、こんなことをお話ししています。

「制作を始めたのが、ちょうど緊急事態宣言が初めて出たくらいの時だった。コロナどうなっちゃうんだろう、怖いなという気持ちがあったのと同時に、東日本大震災が10年以上前にあって、その震災がコロナによってひとつ昔の出来事に押し出されてしまうのではないかという怖さや焦りみたいなものがあった」

”未曾有のパンデミック”と叫ばれ、全世界が恐怖と悲しみの渦に飲み込まれたコロナ禍。緊急事態宣言という衝撃の強さが、誰しもに降りかかる可能性のある恐怖が、終息することなどないのではないかという絶望が、あんなにも、無力感や悲痛感に苛まれていたはずのあの震災の記憶を、確かに、かすめていくような実感が、私の中にもありました。


世界が、終わるのかもしれない。

みんな、感染症で死んじゃうのかもしれない。

一瞬、そんな風にさえ思いました。


すずめと草太さんにしか見えないミミズは、この世界に置き換えられるとしたならば、誰の目にしか映らないミミズでしょうか。

コロナ対応に追われた医療関係者や保健所、行政。はたまた別の意味で振り回され、大変な思いを強いられてきた旅行会社やホテル業界。ヤバいヤバい、コイツをとめなきゃみんな死んじゃう!なんで見えないの?今扉を閉めないと死んじゃうのに!!!本当に見えないの!?そう言いながら走り回り、体当たりで封じ込めにいく姿に、重なる思いがありました。

だけど、だからこそ、改めて『すずめの戸締まり』を観た時に、このコロナ禍に、あの震災が上書き保存されてしまうようなことがあってはいけないんだと、はっきりと、そう思いました。

“本当に、見えないの…?”

あの時の、あのすずめの戸惑いが、全てだと思います。

ムクムクと、大きく高く昇っていくミミズを目にしても、すずめ以外、誰もそれを見えていない。

その描写は、前々作『君の名は。』で、地上まで落ちてくるなどとはつゆ知れず、彗星を見上げながら「見て、あれ」「きれーい!」と言う人々と同じです。

『後ろ戸は、普段は人々の心の重さによって鎮められているんだ』と、草太さんが説明してくれている言葉がありました。人々の心が軽くなったときに、扉が開いてしまうんだ、と。

最初に開いた宮崎の温泉街の、廃墟の後ろ戸。

あの時、一斉に鳴り響いたスマホの緊急地震速報に「最近多いね、地震」「もう慣れたわ」「通知が大袈裟すぎるんよ」と会話する姿が映し出されています。

心が、軽くなっている。
ミミズが、後ろ戸から出てしまう。


次に開いたのは、愛媛の廃校になった中学校の後ろ戸。

チカが「あんたのおかげで久しぶりにあの近くに行った。あのへんの中学校に、通ってたんだ。」懐かしく思い出すかのように、そう言います。

心が、軽くなっている。思い出さなくなっている。ミミズが、後ろ戸から出てしまう。


次に開いた、廃園になった遊園地の観覧車の後ろ戸。

ルミさんが言った「あー久しぶりに見た、あの遊園地」発電機にぶつかった衝撃で久しぶりに点灯した観覧車やジェットコースターを見た町の人々のざわめき。「あれ?あそこって閉園したんじゃなかった?」「まだあったんだー」

あぁ、軽くなっている。いつの間にか、忘れている。ミミズが、後ろ戸から出てしまう。


ただひとつ、最後の東北の扉からは、ミミズは出てきていませんでした。出てくる前に、すずめは扉を見つけました。それは、まだまだ東北の人々の心が、軽くなっていない、何よりの証のように見えました。

12年という月日が流れようとしていても、時間が解決してはくれない思いが、あの海岸にたくさん、眠っているから。

だけれど、後ろ戸の向こう側では、今にも出そうになるミミズを、草太さんが必死に食い止めている描写もあります。

人々にはミミズが見えないように、彗星が落ちていくのをただ「きれい」と見つめるだけだったように、多くの人の中で震災は、いつだって自分だけは大丈夫な遠くで起こっている出来事で、すぐそこまで近づいているのに全然見えてなくて。

『3年後なら(この映画を作るのは)遅いかもしれない』新海監督が、そう言っていました。
南海トラフとか首都直下型地震とか、本当にいつ日本がなくなるか分からない、それは彗星が街に落ちてきて街が吹き飛ぶほど強い衝撃のはずなのに、すぐそこまで来ているはずなのに『その感覚が共有されていない』それがすごく不自然で、すごく怖くて、だからこそ新海監督は、日本の後ろ戸が開く前に、どうしてもこの映画をつくっておきたかったんじゃないかって。

この映画を創ることによって、世界に向かって放映されることによって、人々の心が軽くなっていくのを、あの震災を思い出さなくなるのを、忘れそうになることを、食い止めたかったんじゃないかって。

「ミミズを地震にたとえて、震災を人の手によって止められるものと表現するのはいかがなものか」という、酷評も目にしました。「止められないから災害は起こるんだ」「まるであの東北の地震は、食い止められるはずだったものを、食い止めきれなかった住人のせいみたいじゃないか」と、そういう酷評も見ました。

私が思うのは、そうじゃない。新海監督がミミズに喩えて食い止めようとした本来の核は地震のほうじゃない。そんなの、止められないのは分かってる。災害は、いつか必ず起こる。だからこそ、人々の心が風化して、扉が開いて、それぞれの心に深く突き刺さったはずの要石が抜けそうになるのを、食い止めたかったのではないか。

私はこの作品を、そんな風に感じながら、自分の中に落とし込みました。






【個人的おまけ考察 -黄色について-】

シリアスな描写ばかりではなく、全世代が楽しめるような工夫が随所にちりばめられているこの映画。もっとお話ししたいことはたくさんたくさんありますが、最後にひとつだけ、個人的な、おそらく深読みし過ぎであろう考察を書きます。
笑い飛ばしながら読んでいただけたら幸せです。

すずめが4歳の頃の記憶を思い出す時には、いつも、モンキチョウが飛んでいました。すずめは幼い頃から、黄色1本、赤2本でバッテンにするやり方で、ピン留めを使っています。

九州にいる時のすずめの自転車は、赤。
髪留めも赤。制服の象徴的なリボンも赤。
大人になったすずめは、赤色のものを身につけています。そして、東北に向かう芹澤の車も、赤色です。

一方、東北にいたころの、幼い頃のすずめは、黄色のものを多く身につけています。幼い頃のすずめが常世に迷い込むシーンでも、黄色のマフラーをしています。東北の扉の前の回想シーンで思い出す「ただいま」と元気に帰ってくるすずめも、2つの蝶々のような黄色のゴムで、髪の毛を結んでいます。
お母さんが作ってくれた世界に一つだけのすずめのイスも、塗られたペンキは黄色です。
そして、芹澤の赤色の車が壊れ、東北の後ろ戸まで自転車向かう時、乗り物は、環さんが途中で拾った黄色の自転車へと変わります。

そして、辿り着いたあの震災で無くなった家。
土の中に埋まっていた『すずめのだいじ』箱から出てきたジャポニカ学習帳のような絵日記の表紙には、あの象徴的なモンキチョウの写真が描かれています。すずめが過去を思い出す時に、いつでも記憶の中を飛んでいた、あのモンキチョウです。

そして、草太さんとあの宮崎の、最初に出会った時と同じ坂道で再開する時、すずめの髪留めは、黄色1本、赤2本でバッテンにするやり方から、赤2本だけの横並びに変わっているのです。

そして、その変わりのようにして、坂道を登ってくる草太さんは、黄色のマフラーをしています。

すずめの中で、黄色はある種あの震災のメタファーのようなもので、赤は、今を生きる決心のように、私には写りました。

観ている側にも自然に映るようなやりかたで、黄色の世界と赤の世界でコントラストを描く。

そういう丁寧さが大好きで、新海監督や美術スタッフが心を込めて作る映像に、幾度となく心を打たれてきました。

蝶についてはよく知らないので調べてみると、卵から幼虫、幼虫からサナギ、サナギから成虫へ変身を遂げる蝶は「変化、飛躍」の象徴と言われているそうです。また、戦国時代には、不死・不滅の象徴や、魂を浄土へ運ぶと信じられていた歴史もあると知りました。さらに神道では、蝶は「神を守るもの」と言われていて、神事が滞りなく済んだ時に現れるもの、仏教では、輪廻転生の象徴として、極楽浄土に魂を運んでくれる神聖な生き物と考えられていたようです。

そうして蝶を選んだと説明はないけれど、考えながら、そうなのかな、あぁなのかなと、物語を想像することが、楽しくて仕方がありません。

この映画が、ちょうどすずめのお母さんを含む、東日本大震災の十三回忌にあたる(亡くなって12年後の命日)ようにして公開されたことも、意味があるのかなぁと思っています。十三回忌は、仏様となった故人が宇宙の生命そのものとひとつになる日だと、昔おばあちゃんに聞いたことがあるからです。うぶすなにお返しする、その意味とも合致するよなぁ、なんて、思いながら。

秒速の桜が水たまりに浮かぶたった1秒ほどの映像にハッとした日のこと、言の葉のあの緑と雨の美しさに物語が入ってこないほど見惚れたこと、中二病心をくすぐる「世界を変えてしまう」「宇宙と交信する」「時を超えて入れ替わる」そんな作風が大好きなこと、作品の解釈や、主人公たちに想いを馳せる時間が、何よりも楽しいこと。

生きていれば、こういう作品と出会えるから、私はこの世界のことがもっと好きになるし、また次の作品が公開されるその日まで、心待ちにして、生きていこうと思えます。

何かを待ち遠しく思えること。

そういう希望を、ありがとう。

作品を生んでくれた全ての方へ、心から感謝しています。


あなたの映画を、好きで、幸せです。







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