平地と文明

文明の定義は曖昧さがあるけど、多分、ある程度以上の規模になると、人間は平地に集まったのでないかと思う。

一定以上の人数を扶養するには農業は避けられないし、農業をする上では、起伏の激しい土地より平地の方が好まれるだろうというのは予想が付く。陸路で移動するにしたって、山道を通るよりは、平坦な経路を通りたいのが人情だろう。馬だって、山道を通るには向いてないと思われる。

そんなことを思って、世界の平地マップみたいなデータを探したところ、An assessment of the representation of ecosystems in global protected areas using new maps of World Climate Regions and World Ecosystemsという論文に丁度いい図が見つかった。

ライセンスがCreative Commons Licenseとなってるので、引用させてもらうと、以下のようになっている。

地形図(上記論文より引用)

区分は、Hills(丘)、Plains(平地)、Mountains(山)、Tablelands(台地)の4つ。高度勾配を取って分類した方がいいだろうが、概要の把握にはいいだろう。

ぼーっと眺めると、ユーラシア大陸の東は山が多く、広いと思ってた中国も、内陸は殆ど山で、平地(plains)面積は意外と大きくない。

画像サイズが3000x1600くらいなので、1ピクセルあたり平均100平方キロメートルくらいと解像度は粗い。これで見ると日本列島なんかは山しかないが、あちこちの隙間に入り込むことによって、江戸時代末には、3000万人が自給自足をしていたのだから、隙間も蔑ろにはできないだろう。が、まずは大きい所を押さえていくのが基本だろう。

大雑把に、地名アノテーションを加えたのが以下の図。

華北平原は、伝統的に、中国の中心地と考えられている場所らしく、中原というのは、ここを指すらしい。北京や洛陽は、華北平原の山に近い場所に位置している。長安は、華北平原より山に入った部分。黄河文明の中でも、竜山文化などは華北平原が中心地だったようだが、仰韶文化とかは、もう少し内陸に入った部分で活動していたらしい。

東北平原は、遼河文明があったと言われるようになってる場所だが、ここも大きな平地をなしている。

 

ヒンドゥスタン平原の西側は、インダス文明の中心地でもある。こうしてみると、インダス文明の人々は、もっと東に広がってもよさそうに思える。東に行くと、インダス文明というより、ガンジス文明じゃんという名前のことは別にしても、今のところ、インダス文明の遺跡は西側に偏って見つかっているらしい。

仏教経典には、Uttarapathaというサンスクリット語で、"北の道"(pathaは英語のpathと同根なのか?)を意味する言葉が出てくるそうで、これが、実際の道を指すのか、地域名を指すのか議論があるようだけど、ヒンドゥスタン平原は東西に伸びてるので、どっちでも大差なかったのかもしれない("ステップロード"みたいなものか?)。

紀元前500年頃には、実際に道があって、Grand Trunk Roadと呼ばれ、シルクロードの一部を為したそうだ。昔見た時は、何でこんな北寄りにと思ったが、平原を横断する道だったのだろう。

Grand Trunk Road(Wikipediaより)

インドは、北側を全部山でブロックされてて、中央アジアから陸路でインドに入る場合は、ヒンドゥスタン平原北西のカイバル峠が最も通行しやすく、大体みんなここを通るらしい。アレキサンダー大王も玄奘三蔵も、ここを通ってインドに入ったようだ。カイバル峠を通ってインドに入ると、Grand Trunk Roadに続いていて、玄奘三蔵は、この道を通って、ヒンドゥスタン平原東部にあったナーランダー大学に向かった。

アレキサンダー大王もインダス川を渡った地点で引き換えしていて、公式には、部下が帰還したがったためということになっている。そもそも、アケメネス朝の支配が、平原東部には及んでなかったようで、インダス文明の時といい、東部への進出を阻む何かがあったかのようにも見える。

仏教の開祖である釈迦は、ヒンドゥスタン平原東部の出身とされていて、ネパール国境近くで遺骨が見つかったとも言われる(本物かどうか確かめようがないが)。

メソポタミア文明やエジプト文明の起こった場所も、広い平地ではある。

 

西シベリア平原南部は、西側のウラル山脈と東側のエニセイ川を境界とする一帯。南側の境界がどこかは、不明瞭で、カザフステップや西トルキスタンに、シームレスに繋がっているように見える。西シベリア平原南部には、紀元前2300年頃から、アンドロノヴォ文化が栄えて、スポーク付きの車輪を発明したのは、この文化だと言われる。北方は、寒すぎのだろう。

ヨーロッパ方面に目を向けると、ヨーロッパも中央と南部は殆ど山である。黒海の西には、ワラキア平原と呼ばれる一帯がある。ここは、古代ギリシャや古代ローマで、トラキア人がいたと語られる場所だろう。彼らのことは文字記録を残さなかったので、よく分かってないが、かなり古くから、この地にいたらしい。トラキア黄金文明などと呼ばれることもあるし、古代ギリシャ人たちにも、そこそこ話題にしてることから、古代ギリシャの時代には、割と大勢力でもあったらしい。

ワラキア平原の少し西には、パンノニア平原という開けた場所がある。ローマ帝国の時代には、パンノニア属州と呼ばれたそうだが、ガリアみたいな華々しい逸話とかもなく、よく分からない。Wikipediaには、

パンノニア(Pannonia)の語源は、インド・ヨーロッパ祖語で沼地や湿ったという意味を表す *pen- という言語要素から派生したイリュリア語である。

とあるので、湿地帯で農業には向いてない土地だったのかもしれない。

 

そういうわけで、初期文明が、開けた土地で始まったというのは、割と尤もらしい。ところで、文明は乾燥地帯に生まれたとよく言われるのだけど、同じ論文に、陸地を、降水量別に、砂漠、乾燥地、湿潤地に大雑把に分類した図が掲載されている。

乾湿図(上記論文より引用)

これを見ると、そもそも平地は乾燥してることが多い。乾燥した所が平坦になりやすいのか、平地は乾燥しやすいのか、そのへんの所はよく分からないが。

二つの図から、平坦乾燥地と平坦湿潤地を抽出してみたのが、以下。未発見の文明を探すなら、このへんから始めるのがいい(砂漠に埋もれた文明もあるかもしれないが)

平坦乾燥地


平坦湿潤地

ユーラシア大陸では、平坦湿潤地の大部分は、北方の寒冷地帯にある。ヨーロッパの北側は、割と平地で森林も多いようである。が、緯度で言うなら、北海道や樺太と同じくらいか、それより北にあるわけで、寒冷さ故に農業に向いた土地でなかったのかもしれない。

他にユーラシア大陸で目立つのは、ヒンドゥスタン平原東部、メコン川流域のカンボジア平原、華北平原南部などだろう。

インダス文明がヒンドゥスタン平原東部には進出しなかったらしいのは、西部が乾燥地で、東部が湿潤地(で多分、森林が多いのだろう)という気候的差が理由なのかもしれない。華北平原南部は、長江文明の活動圏に近いように思う。

カンボジア平原のあたりでは、バンチェン遺跡という古い遺跡が存在している。バンチェン遺跡があるのは、現在のタイの領土内で、このへんをカンボジア平原と呼ぶのが適切か分からないが、地理的には、連続した平地を為してるのも確かだろう。カンボジア平原は、メコン川が通っているが、バンチェン遺跡は、メコン川の近くとは言えない場所にある。

バンチェン遺跡は、1960年代に知られるようになって、紀元前3000〜2000年頃のものとされているが、詳しい情報はない。稲作が行われ、青銅器などもあったようだから、当時としては、それなりに進んだ文明でもあったようである。そんな文明が孤立して存在したとも考えにくいが、他に遺跡の発掘などもされてないようで、特に、XX文化とかYY文明みたいな名称もない。

ユーラシア大陸以外だと、寒すぎるグリーンランドは別にして、アフリカのコンゴ盆地、北米東部(名前があるのかわからん)、南米のアマゾン盆地はでかい。アマゾン盆地に関しては、アマゾン文明があったなどと言われることもある。スペイン人が来た時にも、アマゾン文明はまだあったようだが、詳しいことは分からない。北米の湿潤平原とコンゴ盆地は、紀元前に、めぼしい文明が発展したという話は聞かない(人間は住んでただろうが)

 

農業を始めるにあたって、乾燥地の方が有利と考える理屈は簡単に思いつく。木が生い茂ってるような所は伐採しないといけないが、金属器もない時代であれば、さぞ大変だろう。その場合、焼畑が安直な選択肢になると思われる。日本でもヨーロッパでも、結構長い間、焼畑は残っていたようである。インダス文明が、ヒンドゥスタン平原東部に進出しなかったのも、木々の伐採が面倒なので、西側で何とかなってる内は、そこでやっていこうということだったかもしれない。

また、熱帯は植物が生い茂ってるので農業にも向いてるかと思ったら、土壌は、栄養豊富でもないらしく、むしろ、水さえされば乾燥地の方が穀倉地帯になる傾向があるらしい。

とはいえ、平地に限定してみれば、乾燥地か湿潤地かが、それほど文明の形成に影響したかは疑問の余地がある。何故文明は乾燥地で始まったのかという問いに対して、ユーラシアに限れば寒冷でない平地の大部分が乾燥地なので確率的な偶然に過ぎないと答えたとしても間違いではないのかもしれない。

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