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吉田松陰はなぜ激動明治を築けたか…夏季休日に想う|迷想日誌

今年も夏休みが終わりました。この休日を利用して、640ページに及ぶ一冊の文庫本を読破しました。童門冬二著の「小説吉田松陰」です。
ご承知の通り、松陰は、明治維新を創出したうえに、初期の明治政府をけん引した多数の重要人物を育てました。
近代日本の父といっていいでしょう。松陰は、どのような魅力を持った人物だったのか、詳細が知りたくなったのです。

松陰が主宰した「松下村塾」(実際には松陰の叔父が開設)から巣立った人物には、主に久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、山田弥二郎などがいて、門人は総計300人程度といわれています。
明治政府を主導した人物が多く、松陰いなくばその後の日本はどうなっていたか分かりません。

その松下村塾は、大変ユニークな教育方針を採っていたようです。
松陰は常日頃から門人に対して「あなた方と私の関係は子弟ではない。学友だ。私もあなた方とともに学ぶ立場に立つ」と告げていました。
このため松陰は、門人に対して「あなた」と呼び、「僕」(学問のしもべの意味)と自称していたようです。
そして、身分、年齢、学力の程度は一切考えず平等に扱っていました。たとえば、伊藤博文は足軽の子でした。また、闘争の実践に役立つ学問を指向していました。

松陰は20歳ぐらいのとき、ペリー提督の黒船に便乗してアメリカに渡ろうとした罪により(未遂)、長州藩が運営する牢獄に罪人として投獄され、東京・小伝馬町で斬首される満29歳まで地元を離れることはありませんでした。
一時期、獄中3年間で1500冊の本を読んだとされています。

東京で活躍する門人に対して、地元長州から多くの手紙を書いて指示を出していました。
幕府要人の殺害を指示する手紙を送るなど過激さが増したため、とうとう「安政の大獄」で捕縛されてしまいました。

死を目前に次のような一文を残しています。「私は麦の一粒に過ぎない。しかし土の中で死ねば他の多くの実を生ずる。同志よこのことをよく考えてもらいたい」。
斬首を担当した役人の証言では「お願いします」と丁寧に言葉を発し、その姿は胸を打たれるものがあったとしています(執行日1863年10月27日)。

松陰は、その豊富な知識と学問への意欲、卓越した人間性で門人を引き付け、わずか7~8年の間に多くの信奉者を輩出したといえます。
日本がアジアで唯一植民地にならなかったのは、日本を藩ではなく一つの国として捉えていた松陰の門人たちの働きが大きかったといえます。
読後、改めて明治期の志士らに感謝したい気持ちとなりました。

労働新聞編集長 箱田 尊文

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