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書評『自分ごとの政治学』中島岳志著(とちぎVネット「SDGs通信・市民文庫」発行前原稿)

『自分ごとの政治学』中島岳志著 NHK出版 定価737円

評者 白崎一裕(那須里山舎)※上記画像は、NHK出版さんのX(ツイッター)ページより引用画像です

もうはるか昔、10代のころ自分が将来「なりたくない」仕事が三つあった。それは、教師・会社の社長・政治家だった。もともと人づきあいが苦手で、誰とも会わないで暮らすことのできる深山の出家した僧侶になるのが、一番自分に向いていると思っていた。しかし、人生わからないもので、その後の人生はなりたくない仕事そのものか、それにきわめて近い仕事をやるはめになっている。特に政治的なことは、人間関係の極致のように思っていたからもっとも避けたい、近寄りたくない分野だった。しかし、当たり前のことだが人として生まれた以上、ひとりでは生きていくことはできない。そんな当たり前のこともわからない阿呆な若造だった。その阿呆にこの本を読ませたい。

著者の中島さんは本書の冒頭で次のようにいう。

「政治とは何ですか? そんなふうに聞かれたら、皆さんはどう答えるでしょうか。政治学者である私は、政治とは、『簡単には分かり合えない多様な他者とともに、何とか社会を続けていく方法の模索』であると考えています。人間は、どんなに一人でいるのが好きな人であっても、他者がいなくては生きていけません。――」

 分かり合えない他者と共に社会を続けていく方法の模索。この定義は、実は法とは何か、ということと不即不離であると評者は考えているが、きわめて本質的な定義だと思う。

人間という存在は、自分のこともよくわからないところがあり、そんな個体同士がコミュニケーションをとっていくわけだから、たとえ個人の善意であっても誤解や争いなどが絶えないことになる。半面、人はお互いを求めあい、労わりあい、つながりたいという欲求も強くある。人間は、こんな根本矛盾をかかえた面倒な「存在」なのだ。個人個人はよくわからない存在だからこそ、他者と交わりその交流のなかで、お互いが学びあい自分のことを確立していく。この「面倒なこと」にこそ政治の存在意義はある。

だが、政治は力を行使するための主導権闘争、いわゆる権力闘争こそが政治だという見解が一般的だろう。ここには、一面の真理がある。分かり合えない個人個人が秩序を形成して社会生活を営むとき、お互いの行動を「モラル」だけでまとめていくのは難しい。もちろん「モラル」は大切だが、その説諭だけで人がまとまるのであれば、政治は必要ないだろう。そこには、なんらかの「力」の行使が必要となり、その力を権力と呼ぶ。「権力行使」が正当なもの、すべての人々に納得のいくものにすること、これが政治の大きな役割となる。

この政治思想の確立までには、かなりの年月を要した。大きな転機は、16世紀中頃のヨーロッパで起きた宗教戦争である。宗教戦争は、人間の信仰という内面にかかわる対立が、きわめて残虐な殺戮を生み出し、ヨーロッパの社会秩序は根底からゆらぐことになる。この悲惨状態から社会を建てなおしたのが、立憲主義国家の登場だった。立憲主義とは、人々がお互いに社会契約をむすび、それぞれの権力を権力者に委託することによって自らを統治することである。そして、このとき委託者の権力行使に制限を加えるのが「憲法」という基本法のはたらきとなる。

 立憲主義は、中島さんが本書で指摘しているように民主主義と対立するときがある。議会で多数者が決めている法律を実定法というが、この実定法は裁判などで憲法に照らし合わせ「違憲」とされて、そのはたらきが制限される(または、法律そのものが効力を失う)。実定法の制限は、憲法の重要な役割だ。しかし、多数決で決められたものが、なぜ、裁判などの「多数決で決められていない判決」でくつがえされるのか。

中島さんは、こう指摘する。立憲主義とは、生きている人間だけで決めていること(議会多数決)を「ダメ」という主体が存在しているということだという。その主体は、誰なのか、それは過去の「死者たち」の声なのだと説明される。過去から連綿と続いてきた死者たちがもたらす「モラル」の総体とでもいいかえられるだろうか。この思想は、自然法(憲法)が実定法を制限するという立憲主義の根本的な考え方だが、自然法の根拠に何をおくかは、様々な思想がある。中世西欧なら、キリスト教の神だということになったかもしれない。しかし、現代では、歴史の吟味(伝統)をへて現在の人間の感性にも合致する「モラル」の総体だというのが一番だと思う。本書では、ガンディーなどの生き方にもふれながら、ここまで述べてきた思想の歴史的実例が、説明されている。

政治が嫌いな人にぜひ読んでいただきたい第一級の入門書である。


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