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物理学と一般常識 その3

大乗仏教の華厳の思想と現代物理学
仏教は端的には悟りとその効用としての自我の解体を説いたものです。
それを受けた華厳経は、更に、大きな世界を構想しました。
華厳経に書かれていることは、まさに、現代物理と軌を一にする如きの宇宙観を既に二千数百年も前に構想しているのが面白い。

その華厳経の世界とはどういうものなのでしょうか。一塵(いちじん)
の中に全世界が宿り、一瞬の中に永遠があるという。一即一切、一切即一の世界観を説く経典です。

東洋思想というのは、禅問答の様に散文的で、非日常語的ですから西洋的な
融合、統合が本来難しい面がある。

先ずは宇宙の大きさからみてみよう。現在の宇宙物理学では、宇宙は、太陽系のような集まりがおよそ1千億個集まって銀河を形成しているとされています。
そして、その銀河はさらに数百から数万個集まって銀河団を形成しています。つまり太陽系が一つの世界で、銀河はそれらが千個集まった千世界であると解釈できるのです。

この現実の宇宙と、仏教の宇宙は整合しています。つまり仏教ははるか昔に、宇宙について何も判明していなかった時代に宇宙の正しい姿を正確に把握していたということです。

極微はどうでしょう。
現在の物理学では、素粒子を想定しているが、仏教もほぼ同じ程度のことを考えています。

素粒子を構成するものは、幾種類かのクォーク、あるいは振動数の違う「超ヒモ」などと考えられているが、仏教ではギリシャと同様、地・水・火・風のはたらきの組み合わせと考えた。
この四つの機能が縁によって合わさることで極微ができる。つまり極微以下は、物質ではなく機能と考えたわけです。極微が七つ集まると「微塵(みじん)」になる。

仏教の供養塔である「五輪塔」は、地・水・火・風を表しその上に「空」が載っている。これは地・水・火・風に分離したあとの状態だからエネルギーと考えてもいいが、現代物理学が最近直面している「モノ」から「コト」への流れを、うまく説明しているという。
量子論では、超ミクロの世界は観測されて初めて粒子が現れ、観測しなければ波である確率が高いという。

つまり観測される事態は、観測する人との間に起こる「コト・事」なのである。すべてがそれ自体で独立した実在ではありえないという「空」の思想は、量子論の先取りともいわれる。
 
次に時間の相対性であるが、最短時間の「刹那(せつな)」は七十五分の一秒。最長の時間は「無量劫(ごう)数」だろう。
一劫とは、一辺が七キロもある大きな岩に天女が舞い降りてくる。その天女の羽衣で石が摩滅してなくなるまでの時間だというのだが、天女が降りてくるのは百年に一度とも三千年に一度とも云(い)われる。いずれにしてもその無量倍だから、永遠といってもいいだろう。

 そうしたマクロからミクロまでを、刹那から無量劫数のスパンで考えたのが仏教の時空間といわれる。

古代インド思想でいう梵我一如ということは、無限の空間と無量の時間とが、私という存在に流れ込んでいるということだ。
現代科学はそれを遺伝子によって説明するが、仏教では「蓮華(れんげ)」というものを想定したという。

『華厳経(けごんきょう)』によれば、蓮華というのは全ての命がそこから生まれてきたという水中の白い花だ。
これはどう考えても細胞核、あるいは遺伝子だろう。一に一切が込められ、一切に一が実現する。それも『華厳経』の言葉、それは遺伝子だけでなく、ホログラフィーという記録再生技術まで説明してしまうという。

 このNoteで幾度も触れてように、ホログラフィーとは、三次元の情報を二次元に記憶させ、それにレーザー光線を当てて再生する技術だ。

この場合、記憶媒体の二次元平面を百分の一にしても千分の一にしても、うっすらとだが全体が映るのである。
つまり、ある平面のここにはどの情報という、局在的な記憶のされ方ではなく、一点に全てが記憶された無数の点の集合がホログラフィーというだ。

最近では、脳の記憶にもそうした側面があるとされる。これによって、草葉の陰に誰かの記憶がまとまって存在する可能性も否定できない。

 仏教は、時代を超え「全体性」への視線を持ちつづけてきた。「色」という部分を見るのにも、常に「空」という「全体性」の反映を見ようとしてきた。
それは、ミクロにもマクロにも「宇宙」を感じてきたからに違いないというのだ。(Web記事を参照)
 
「範囲を限定して分析してわかる」という近代科学の方法を用いずに、直観的にここまでの宇宙を想定したアジア人の底知れぬ能力、叡智なのだろう。

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