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『繚乱コスモス』(5)☆ファンタジー小説

 女将が襖を開けると、12畳の和室があった。しかし、畳はその半分ほどしか敷いておらず、残り半分は縁側に沿って板の間があり、その左右両側に花が飾ってある。
「綺麗なお花ですね」
 部屋には、乱舞した蝶が今にも飛び出してきそうな円山応挙の絵や、瑠璃色に光沢を放つ明時代の壷など、どれも一級品が飾ってある。それらを褒めるより先に、まず花を褒めたのは、女将か美奈子の趣味だと思ったからである。
 予想は当っていたらしく、女将が嬉しそうに言った。
「右はわたくしが選んだアッツ桜で、左はこの子が選んだユリですのよ」
 梅雨時に花を飾るのは難しいものだ。あえて紫陽花を飾らないところに、意味があるように思えた。
 その考えを見透かしたように、美奈子が花言葉を説明する。
「アッツ桜は『可憐』で、ユリは『純粋』」
「そうなんだ。女子会にはピッタリね」

 美奈子が微笑みを返して席を勧める。徳子はそれ従い、庭に面しておかれた座布団に正座すると、その隣に美奈子がリラックスした表情を浮かべながら、足を崩して座った。
「ごゆっくり」
 障子が閉じられて女将が出てゆくと、徳子は話題に困って玉砂利を敷き詰めた庭に視線を投げた。清浄すぎるその景色の中に存在する自分に違和感があったが、美奈子は溶け込んでいるように見える。

 徳子は、学園で感じた彼女への尊敬の念は、その佇まいに対する憧れだと感じていた。それと同時に、彼女と自分を比較してしまい、いたたまれない想いもこみ上げてくる。自らの存在が場違いではないかと考え始めたころ、美奈子が言った。
「徳子ちゃん、ありがとう」

 場を包んでいた緊張感は緩やかになり、徳子は、庭から美奈子へと視線を戻す。
「えっ、なにが?」
「徳子ちゃん、黒田さんのチームでしょ? わたしあの人から良く思われてないみたいなの。入社のときにお水を飲もうと本社の給湯室に入ったときね、見ちゃったの。なんというか、その、お茶に細工しているところ。それでね、注意したのよ」
「黒田さんに注意したのっ?」
「ええ」
「それはスゴイ」
「そう? それで今日、打ち合わせのときにお茶に細工されるかな、って思っていたら徳子ちゃんが出てきて、わたしにお茶を渡す寸前に」
「コケた」
「ふふっ、名演技だったわ。だから、ありがとう。徳子ちゃんは女子高のときから全然変わってない。だから安心しちゃった」
 徳子はやや俯いて言った。
「えへへ…… でもわたしさ、美奈子ちゃんにとって、良い友達とは言えなかった気がするんだけど」
「そんなことない。徳子ちゃんの出来る範囲で、最大限に助けてくれたと思うのだけれど」
「わたしのできる範囲って、それはそれは狭い範囲だったと思うんだけどなぁ。正直、わたしって八方美人だよね?」
「きっと、わたしもそうよ。みんなに良く思われたい気持ちが無いと言えば嘘になるもの」

 徳子は、告解するかのように、上目遣いで美奈子の顔を見上げながら言う。
「でも、美奈子ちゃんだったら、わたしのような態度はとらなかったと思う。きっと、毅然と、『そんなことは良くない』とか言って……」
 徳子は、美奈子にそうだと言って欲しかった。そして小言や罵詈雑言の類でもいい、自分を責めて欲しかった。それが徳子の贖罪で、禊だと思った。

 その時、ススッ、と遠慮がちに障子が開く。女将である。
「お話中にごめんなさいね。お食事召し上がってくださいな」
 先に女中が二人の前に膳を置き、女将が料理を乗せた折敷を徳子に渡した。
(タイミング悪っ……)
 徳子は美奈子の言葉が聞きたいと思ったが、女将の好意に水を差してまで強引に聞くのは違う、と感じていた。
「ありがとうございます」
「いいえ」
 次いで美奈子にも渡し、女将と女中は丁寧にお辞儀をして部屋を出てゆく。

 膳を見ると、赤い飯椀に映える白いご飯、横にはやはり赤の汁椀に白味噌の汁。湯葉、青菜、はす芋が料理を口にする前から舌に爽快感を与えてくれる。向付には、ばくだいの寒天寄せと赤貝のいちご造りがあり、それらが秩序をもって折り目正しく並べられていた。
「食べるのが惜しいスイーツは何度か見たことがあるけど、食事では初めてだわ。食器も綺麗で、食べ物に着せる振袖みたい」
 思わず感想を漏らした徳子に、美奈子がぼそっと言った。
「この料理、本気ね」
「美奈子ちゃん、板前さんはいつも本気でしょう?」
「そうなんだけど、赤貝は身を取って素早く調理し、まな板に上手く叩きつけないと、イチゴのように膨らまない。それに今は赤貝の旬じゃないの。夏は産卵期を過ぎて小さいのが普通だけれど、これは大きい。この時期にこんな立派な赤貝、日本にはいないわ」
「え? じゃあどうやって?」
「日本よりもっと寒い地方…… ロシアのピョートル大帝湾から急遽取り寄せたんだと思う。豊洲を経由せず、直接ね」
「あのぉ、スゴすぎて、お財布が心配なんですが…… 実はタクシー降りたときから」
「こんな家庭料理でお代なんていただけないわ」
「家庭料理?」
「そう。わたしのウチだもの」
「ものすごい広意義な解釈ね。でもホッとしたぁ」
「心配させて危うく料理の味を落とすところだったわ。気がつかなくてごめんね」
「いえいえ、では遠慮なくいただきます」
「どうぞ」
「と…… 食べるときのマナーとか、ある?」
「茶懐石のしきたりに則って料理は出るわ。ご飯が左、汁物は右、その向こうに向付……」
「黒田さんもそんなこと言ってた」
「え?」
「お茶を盆に乗せる配列」
「ふふっ。でもこちらは『細工』無しだから、安心してお召し上がりくださいな。しきたり通りに料理は出るけれど、気軽に美味しく食べてもらえれば、わたしにとっては何よりよ」
 二人は笑い合う。

 徳子は改めて料理に向き合い、利休箸を持つと汁椀の中の湯葉を口に入れた。
 酒を挟んで海老芋と瓜の煮物、鱧のてんぷら、川海老、百合根の吸い物、京豆腐、塩昆布が運ばれたころには、徳子は満腹になっていた。
 一品一品は少量なのだが、その彩り、食器の華やかさ、折敷に並べたときのまるで絵画のような色彩に、まず脳が満足してしまい、必要以上に満腹中枢を刺激して胃が膨れるのを感じていた。

「んぷ。美奈子ちゃん、懐石料理って一汁三菜って聞くけど」
「今日は二汁五菜ね。つまりフルコース…… わたしも苦しくなってきた、お腹。でもこれで終わりだから」
(よかったぁ…… 美味しいけれど、苦しくて飲み込めない)
 最後の料理が運ばれた後は、女将も女中も部屋に来ない。板場は二人のために全力を尽くして、今は後片付けに入っている。

 ういろうを食べ終えて一息ついたころ、美奈子が言った。
「わたしの部屋に来ない?」



『繚乱コスモス』(6)に続く

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