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『繚乱コスモス』(7)☆ファンタジー小説

 徳子は、一刻も早くこの家から出て行こうと、目眩を耐えながら立ち上がった。すると、窓の外に人影が見える。部屋の様子を窺っているようだった。従業員かとも思ったが、従業員が垣根を越えて美奈子の部屋を覗くとは考えにくい。
「誰っ?」
 徳子は短く言って窓から外を見る。そして、影の手元に一筋のナイフが光るのを見て息を飲んだ。
「ひっ!」
 母屋からは、何の警戒もしていない桐下駄の鳴る音が近付いてくる。美奈子だ。
 窓の人影は、美奈子を狙っているのは明白だった。
(美奈子ちゃん、来ちゃダメ、ダメ、ダメ……)

「ダメぇええ!」
 徳子は、恐怖でかすれ、詰まった声を一気に吐き出す。桐下駄の音がぴたりと止む。影がナイフで窓ガラスを割ったとき、机の上に置いてあった人形が青く光る。
「人形がっ」
 徳子は声にならない声で呻いた。

 瞼を閉じた人形が、紅を引いた唇だけピクピク動かしている。
 人影は、割れた窓ガラスから手を伸ばし、鍵を開けようとしている。あまりの出来事に徳子はパニックに陥った。
「あうっ、んぐっっ……」
 徳子の口からはもう、意味のある言語は出てこない。

 逃げるため襖を開けようとしたが、脳と手足の神経が体内で分断されたかのように、身体のコントロールがきかなかった。
 そのとき襖が開いた。
「誰、そこにいるのはっ」
 美奈子の声だ。
(美奈子ちゃんが危ないっ!)
 瞬間、目的を持った頭脳が覚醒した。部屋に降りた冷気は霧散する。すると解き放たれたように身体の自由が利いた。

「きゃあぁっ!」
 美奈子の金切り声だ。窓の人影はすでに影ではない。灰色のポンチョを着て、頭からフードを被っている。性別はわからなかったが小柄だった。そして、手にはナイフを握り締めている。

 二人の姿を見た侵入者は一瞬戸惑う様子を見せたが、美奈子に視線を固定すると、ナイフを振りかざした。徳子には一瞥もしない。美奈子は腰砕けになっていて、立ち上がることさえ出来ずにいる。侵入者は美奈子に馬乗りになった。
(心の傷口は、命にまで達して)
 ついさっき、自分の呟いた言葉が徳子の頭を支配した。騒ぎを聞きつけて母屋から駆けてくる従業員の足音が聞こえるが、侵入者がナイフを振り下ろす前に到達できるとは思えない。

 美奈子を救えるのは、徳子だけだ。
(美奈子ちゃんに辛い思いをさせてきた。わたしは八方美人に徹して、本当に友達になりたい人をぞんざいに扱って傷つけ、今、その人の危機に何もしない…… わたしって一体なんなのっ)
「えええぇぇいっ!」
 徳子は蛮勇を発揮して侵入者に突っ込んでゆく。ガツンと額に衝撃があった。殴られたようだ。徳子は思わず、机の上にあった人形を引っ掴んで盾にする。
「人形っ?」
 初めて侵入者の声が聞こえた。次いでその声が、驚愕からおののきへと変化する。
「目っ、目がっ」
 侵入者が怯んだ隙に、ナイフを握る腕に徳子はしがみついて奪い、不恰好な姿で侵入者に向かって身構えた。相手はとっさに美奈子から飛びのき、背を向けて逃げてゆく。それを従業員たちが喚きながら追いかけていった。
 
 何の変哲もない平和な日常から突然、生と死の境界を渡り、そして生き延びることができた徳子は、足に力が入らずへたり込む。

 そこに、美奈子が這ってにじり寄ってきた。
「ひっ、ひっ、ひっ……」
 美奈子は嗚咽を漏らしながら、徳子の背中にしがみついてきた。
「もっもう、大丈夫、だから……」
 慰める徳子の声も震えている。
「お嬢様、お怪我はありませんか?」
「美奈子っ!」
 従業員や女将が美奈子に駆け寄るが、美奈子は徳子の背中を離そうとしない。
「美奈子ちゃん、もう、大丈夫よ」
 人が集まってきて落ち着いてくると、侵入者が逃げしなに残した言葉が思い起こされた。

(そういえば、侵入者は人形の目を気にしていたわね……)
 徳子は改めて、左手に握り締めた人形を見る。
(『目』? この人形、たしか目を閉じてたはずじゃ)
 右手には侵入者から奪ったナイフ。徳子は人形の顔を確認しようと右手を動かした瞬間、人形が勝手に動いて。グルリと正面を向いた。
 黒々とした瞳が、異様なほど大きく開いていた。
「目が、開いてるっ!」

 その瞬間、徳子の視界は歪んで意識が遠くなった。



『繚乱コスモス』(8)へ続く…

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