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まち歩き:長崎編

大学院の友達と一日長崎を旅行した。僕にとっては2年ぶりの長崎である。

今回は世界遺産専攻らしく、まち歩きによる文化遺産の価値の発見。私、中尾によるまち歩きエンターテイメント、ブラタモリならぬブラナカオを敢行。

本来であれば、亀が出てきて、今回のテーマ的なのを提示するのだが、みんなにいろんなところに訪れて欲しかったので、決まらなかった。世界遺産専攻的まち歩きの試作である。

長崎駅前でみんなを迎え、長崎市五島町にあるゲストハウスCasanodaでチェックイン。

まずは五島町の近所にある出島から観光することにしよう。

「出島と江戸町(陸側)の間に鉄製の橋が架けられている。これは、ついこの間、2月27日に架けられた鉄製の橋。江戸時代の出島は石造の旧出島橋が架けられ、日本と欧州とを結ぶ出入り口になっていたのだけど、明治時代に撤去されてしまった。

それを復元しようという話になり、出島と江戸町の間に再び橋を架ける計画が始まった。

しかし、ここで問題が発生した。鎖国当時、出島と江戸町の間には長さ4.5mの小さな石の橋が架かっていた。しかし、明治以降の中島川変流工事により、出島は扇型になっている内側が約15m削り取られ、出島と江戸町の間隔は約30mになった。

30mの石造の橋を架けること自体、技術的には可能だけど、国指定の史跡を復元する場合、当時と同じものを忠実に復元しなければならない。つまり、国指定史跡内に歴史的考証がないまま、江戸時代風の建造物を作ることはできない。

鎖国当時の石橋を復元するのであれば、長さ4.5mの石橋を忠実に再現しなければならない。しかし、現在の出島と江戸町の間は30mも離れているので、石橋を作って架けるのは当時の状況と異なるため不可能というわけだ。」

だから鉄製の橋になったんだと。

さらに、この橋の設計を手掛けたのは日本人とベルギー人のコンビなんだそうだ。鎖国時代のベルギーはオランダ領だった。日本人と旧オランダ民によって再び橋が架けられる。なんとも不思議な巡り合わせだな。

出島を見た後は、観光通りを抜け、思案橋へ向かった。

ここには実際に思案橋という名前の橋は無い。ここには1948年まで橋が架かっていたのだが、暗渠化に伴い撤去されたのだそうだ。どうして思案橋という名前がつけられたのか。橋の北側は寺町や万才町など人が住む住宅地で、南側は丸山町や寄合町など遊郭がある歓楽街になっている。その間の橋で、遊郭に遊びに行くか家に帰るか思案したことから思案橋と呼ばれるようになったそうだ。

今でも遊ぶところ、お酒を飲むところがたくさんある。提灯がぶらさがっていると雰囲気出るよね。

ところで、この思案橋だけど、橋は無くなったけど川はまだ流れている。埋め立てではなく暗渠といったのはそのためで、この飲屋街の下には川がある。

地図上の、星の位置に立って大通りを眺めると、通りの下を川が流れているのが分かる。

思案橋の飲み屋街を抜けると、ちゃんと川が続いているのが確認できる。

川の上には家やお店が立っている。

この小さな市場の下に川がある。川や高架下のようなところは住所がなかったりする。これも戦後日本の歴史を理解する上で重要な資料になるのかもしれない。

本来なら、ここでヘルメットを被って思案橋の下を探検したかったのだが、さすがにそれは出来なかった。ちょっとあてずっぽうなところがあるので、川の位置はもしかしたら正確ではないかもしれないが、だいたい合っていると思う。暗渠歩きたいなあ。


思案橋のごちゃごちゃを抜けると、目前に中華街が見える。

出島と同じ、中華街も埋め立てられた土地だ。

この橋と門だけが江戸時代、中華街への出入り口になる。だから、中華街に行くときは、なるべくここを歩いて歴史のエネルギーを感じるのだ。中華街についてはよく知らないんだけどね。

中華街で軽く食べる人もいた。この辺はやっぱり食べ歩きがいいよねなんて思った。まち歩きを楽しむには食べ歩くという要素も不可欠なのだ。

小腹を満たしたところで、ここから先は、旧居留地エリア。東山手と南山手はオランダ坂やグラバー園、大浦天主堂などを有する長崎の顔となる地域だ。

オランダ坂とはこのような特定の場所のことを言うのではなく、東山手南山手地区においてこの坂のように、石畳造の道のことを言う。ちなみにこの石畳はだいたい斜め向きに舗装されている。そうすることで目地の部分を水が流れやすくなり、排水の効率を上げることができるからだそうだ。

南山手地区には、グラバー園がある。僕が初めて都市計画を学び、遺産の価値を考えるようになった原点だ。出来れば、グラバー園を含む南山手地区の景観の変遷とその構成要素の価値について考える時間があればよかったのだけど、日が傾きかけていたのでグラバー園はスキップした。トワイライトの時間までにみんなを稲佐山まで連れていかなければならなかったからね。

ここが、どんどん坂。グラバー園を回る代わりにここを案内した。1877年以降にできたとされるが、この坂に案内した理由の一つは、この石畳が建造当時のものであるということだ。オランダ坂の中でも、他の場所の石畳は結構張り替えられている。それは車のタイヤで削られたり割れたりすることによるのだが、どんどん坂は狭いのでその影響を受けにくい。オーセンティシティ(真正性)はかなり担保されていると思う。また、ここの側溝は三角溝といって、溝の底がV字になっている。これも水の流れを調節するもので、雨水が流れやすくなるよう設計されている。どんどん坂の名前の由来は、この雨水がどんどんと音を立てて流れることによると言われている。それもこの三角溝のおかげなのだろう。だが、水の流れは坂の下部になるほど勢いがつく。だからどんどん坂ではその勢いを一定に保つため、坂の勾配を上部から下部にかけて徐々に緩やかにしているという点も見モノだ。先人たちによる長崎の都市計画はそれほどまでに環境を理解し、洗練されている。

懐かしくどんどん坂を下っていたが、途中で、原付がブンブンと吹かしながら上がってきた。きっとこの付近の住民なのだろう。そこに、遺産と地域住民との関係について考えずにはいられなかった。


どんどん坂から大浦天主堂まで歩いた。大浦天主堂に関してはあまり知らないので説明できない。ただ、数年前にここを訪れた時、その美しさに息を呑んだ。夕日が天主堂のステンドグラスをくぐり蝙蝠天井を照らす時、その光はほんのりと暖かく、強烈に心に焼きつく。この光は殉教者26人の魂の色か。それとも光の中に神を見出したのか。感動とはつくづく不思議なものである。今回は稲佐山の向こうに日が沈んでいたので、その光を見ることはなかった。

大浦天主堂正面の坂を下り、大浦海岸通りでタクシーを拾って稲佐山のロープウェー乗り場まで行った。

タクシーで稲佐山に向かう途中、ずっと空き地になっていた埋立地で大規模な工事が行われているのを見た。

実は、今度この場所に長崎県庁が移転されるらしい。タクシーの運ちゃんは嬉しげにそう話していたが、僕は一つ腑に落ちないことがある。それは、長崎の都市軸の問題だ。

地図を見て、北から諏訪神社、長崎市役所、長崎県庁、出島、水辺の森公園、女神大橋の順に線で繋いでみると綺麗な直線ができる。

今後、県庁の移転が実現すると、この軸がボキッと折れる。

なぜ軸がここにあるのだろうか。はっきりした理由は調べてないのでよく分からない。

昔、今の県庁があったところは岬になっていて、湾の中で突き出た形をしたところだった。いま県庁がある場所が岬の端っこである。県庁はもともと、長崎奉行所や海軍伝習所、イエズス会の本部が置かれていたらしい。そこは政治的に重要な拠点だった。

長崎の都市軸ができるきっかけ、それを構成する県庁や出島がそこに設置された理由は何だろうか。

県庁(イエズス会・奉行所)がここにあるのも、出島がこの場所に造られたのも全て理由がある。おそらく、土地の構造にその理由があるのだと思っている。船がつけやすい場所で、波の穏やかなところで、水深があって...

長崎の湾の最深部は干潟だから手前の岬にしようか、とか、いろんな理由があるのだろう。ここが政治的中心部として栄えたのは土地にその必然的な理由があると思わずにはいられないのだ。

他にも、最近できた軸の構成要素としては、水辺の森公園と女神大橋がある。これらは確か平成に入ってからできたものだけど、しっかりとこの軸を意識して造られている。

水辺の森公園の入り口はこの軸の上にある。軸がこの入り口の中心をまっすぐに通る。

さらに、埋立地なのにもかかわらず、この公園の入り口は小高い丘になっていて、階段を登っていかねばならない。そして両脇にはたくさんの木が生えている。

なぜ、わざわざ木で視界を遮り、階段を登るような苦労をさせるのか。その答えはこの階段を登った後にわかる。

この景色を見せるためだぁ!

階段を登ると、その先に広がるのは新緑の公園と濃紺の長崎港、そして女神大橋。階段の最上段まで上り詰めて、初めてこの景色を眺めた時「わぁ」と声を漏らさない人はいないだろう。

両側に樹木を置き、見通しの良い通り景観の正面に視線を惹きつける象徴的なものを置くことで、奥行きの深さと強烈な印象を残す。それが、ヴィスタ・アイストップだ。しかもこの公園の場合、通り景観だけでなく、その先に開けた空間を置くことによって、狭く暗いところから広く明るいところへ導き、来訪者の心を揺さぶる仕掛けまで揃えている。

長崎の都市計画は、現代でも間違いなく人の心を捉えている。諏訪神社から女神大橋までの5キロメートルは、約400年に及ぶ長崎の都市計画の賜物だ。


タクシーの運ちゃんと話しながら、移転が進む新庁舎を横目にロープウェー乗り場に向かった。

長崎の夜景は、山の稜線がはっきり見えて街明かりが灯る時間が最も美しい。

三菱造船のジャイアントカンチレバークレーンが目立って見えたのは、クレーンの光のせいなのか、この2年間のせいか。それに気づいた時、精神の経年変化と長崎の変わらぬ街の輝きが切なかった。

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