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脳出血(*_*)、骨折(TOT)でも、歩こう①

2024年4月18日、私は、前年秋の同窓会で親しくなった友人といっしょに、奈良県の宇陀市を巡っていた。

前年にあった、45年ぶりの高校同窓会では、同窓生専用の掲示板が立ち上げられ、その中で交流することで、同窓会当日までのワクワク感とその後の余韻を楽しむことができた。
色々な話題で次々と盛り上がる中、宇陀市出身の同級生の投稿と、宇陀市の学校に勤める同級生の投稿が目についた。
私は、35年以上前に、宇陀市の学校に勤めていたのだ。

宇陀市は、自然豊かで、とても美しい地域だ。
私が、大学卒業後初めて赴任したのが、宇陀市の学校だった。
赴任する学校に挨拶に行く日、駅を降りて、バスに乗った。車窓に映るのは、ジブリの映画に出てきそうな、そう、「となりのトトロ」の背景のような、飾り気がないけれど、人の心をそっと癒やしてくれる景色だった。

私が、宇陀市で教員として過ごした3年間は、過酷なものだった。
私は、若すぎたのだと思う。生徒はもちろん悪くない。田舎の子どもたちは、純粋そのものだ。もともと教員になることを希望していなかったので、私に覚悟が足りなかったのだ。
私は、宇陀市の素晴らしさを感じながらも、それを上回るストレスに耐えられず、教諭の地位を捨てて、もう訪れたくはないというほどの負の感情を持って、この地を去った。
今から思い返しても、自分の人としての幼さ、教員としての力不足が恥ずかしくなる。

掲示板の中で、宇陀市の自分のふる里を誇りにし、自分の原点として語る同級生の投稿に、私の心は動いた。
私は、自分のこれまでの人生の心残りが、この場所にあることに気が付いた。
いつか宇陀市を、バスの車窓から眺めたままの美しい場所として楽しい気持ちで訪れたいと、私は掲示板に書き込んだ。

脳出血を発症して1年3ヶ月後に、私のこの希望が叶えられる日が来た。
同窓会の掲示板が閉鎖されてからも、同窓生との交流は続き、高校生だった時には全く知らなかった同級生とも親しくなった。
4月18日に「ウダウダ散歩」として宇陀市を訪れた仲間は、みんな掲示板で知り合った同級生だった。

宇陀市出身の同級生が、その日のプランを一生懸命考えてくれた。
私が勤めていた学校の校庭も訪れた。
校庭の古い朝礼台は、見覚えがあった。小規模のその学校では、学校中でまとまって色々な行事をしていたのを思い出した。
学校の横には、産直市場のような、来訪者を楽しませる施設ができていた。
宇陀市は、いつの間にか、ただの田舎ではなく、隠れた観光地になっていたのだ。

車は、古き良き日本の昔を思い起こさせるような景色をパノラマのように車窓に映しながらどんどん巡る。
私が、歩行困難なのを考慮したプランであったが、ところどころ、車を降りてゆっくり歩くのを楽しませてくれた。坂道も、でこぼこ道もあったけれど、ゆっくり進めた。いつもよりもしっかり歩けた。
最後には、施設で暮らす私の母が35年前に植えて、去年虫食いで枯れかけた枝垂れ桜を見に行った。
もう葉桜になっていたけれど、もとの樹形を取り戻しつつあるのが分かった。ボランティアの方が、手入れをしてくれたのだ。
今年は10輪ほどしか花は咲かなかったが、来年はたくさん花を咲かせるだろう。

宇陀市を巡ったあとに、さらに数名の同級生が加わる夕食会場に向かった。

夕食会場となる店の通路は狭かった。通路の先が会場なのは、幹事をしてくれている友だちが先に向かっている事から分かった。
カウンターとなっている狭い通路には、椅子が並んでいて、杖を持つ私が歩くのは困難だった。
通路の真ん中にはお客さんが一人座っていた。彼の後ろは狭すぎて、進むことはできないと思っていたが、彼は私に気がついて席を立ってくれた。
私は、会釈をしてから進もうとしたが、それでも、前を向いて進める幅はなかったので、壁を背に、カニのように横歩きした。麻痺をしている左側から進行していった。
そして、席を立った彼とすれ違った瞬間、力を入れられない左側を下にして倒れた。起き上がれないと気づいたら、友人数人が集まってきて、助け起こしてくれた。
床に倒れた姿勢から、椅子に座らせてくれたけれど、左側全体が痛かった。
普段の辛い疼痛が何倍もに増幅されていた。

私は、救急搬送されて、いくつもの病院で断わられ、父が昔入院して嫌がっていた病院だけが、受け入れてくれるようになった。
レントゲンを撮って、左大腿部頸部骨折していることが分かった。
骨折して離れた骨を金属で接合する手術を受けないと、2度と歩けないと言われた。

普段飲んでいる薬に、手術に影響のある薬があるということで、手術は一週間伸びて4月26日となった。
また、寝たきりで、全介助状態だ。
少しでも身体を動かすと痛いので、横にあるものさえ取れない。
手術までずっと仰向けの一週間。寝返りさえできないので、褥瘡を防ぐため、看護師さんが時々、背中の下に入れたクッションの位置を変えてくれている。

最初の脳出血での病院での不快な経験が役立っている。大部屋で、他の人のケアの様子が分かるので、同等のケアが受けられるように、病院スタッフとのコミュニケーションを取っている。

いい病院とは言えないけれど、脳出血で最初に運ばれた病院よりはずっとマシとは思っている。

枕の横にポシェットを置いている。そこにスマホを立てかけている。
スマホには次々と、優しい応援のメッセージが届く。
激痛の波の下り坂で、友人たちの心からの祈りの言葉を読んでいると、私が今いる世界は、脳出血の時の、孤独で惨めな世界とは、違っていることを実感できる。歩けるようになり、元気になり、きっと友人たちと笑顔いっぱいで会いたい。友人たちの顔を思い浮かべると、この苦難を乗り越えようという勇気が湧いてくる。

さあ、今日の午後が手術だ。

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