[短編小説]あのひとに会えない日は死んでしまいそうになる
駅ビルの床は、ほかの建物よりも光の反射率が高くて、足早に歩くひとほど、輝いて見えるようになっている。
艶がかった茶色い髪を綺麗に巻いている女性とすれ違うとき防衛反応で目を伏せてしまう。キラキラしたオーラが眩しすぎて直視したらきっと目が潰れる。どうして同じ「女」なのに何もかもが違うような気がするのだろう。エスカレーターに乗ると右側が鏡張りになっていて、突然映し出された自分の姿に息を飲んだ。「わたしが思う描く自分」よりも、きょうのわたしは綺麗に感じた。髪は巻いていないし、キラキラオーラは纏っていないけれど自分しかしらないシミはちゃんと隠れているし、目はいつもより大きく見える。眉毛もちゃんと整っている。髪だってちゃんとまっすぐ肩にかかっているし、艶がある。そんな自分の姿を見て幸せな気持ちになるのに、その中に窮屈さが紛れ込んでいることに気がついていた。
そんなのどうだっていい。だってきょうは、あのひとに会える日だ。
世の中の「恋愛していないと女失格」「化粧をしていないと女失格」という風潮にいつも首を絞められていた。幼少の頃は化粧をしていなくても咎められなかったのにある日突然化粧することを強いられる。化粧をしていないと「女のくせに」と言われてしまう。わたしはたまたま女性として生まれてきたけれど、自分が女だという自覚があまりなかった。女という性別を与えられながら、女の格好をすることに違和感があった。学校で性別に分けられるとき、自分が女なんだと思い知らされた。かといって自分が男という意識もないし、男になりたいわけでもない。性別というのを考えるとき、脳がスポンジになるような感覚に襲われた。
きょうだってそうだ。こんな格好をしながら、脳は少しだけスポンジ状態だった。自分は一生恋とは無縁だと思っていたし、「恋はするものではなく、落ちるもの」という陳腐なフレーズをいつも鼻で笑っていた。だけどあの日以来、自分の中で何かが変わった。
駅ビルを出て、中央改札の前で誠司さんを待った。待ち合わせより三十分も早く駅についてしまい、二十分駅ビルの本屋で時間を潰した。本の種類は地元の本屋とそんなに変わらないのに、なぜか同じ値段で同じ形をしている本が、高そうな代物に見える。緊張しながら本を読んでいたので疲労はすでに肩にのしかかっていた。
待ち合わせの五分前、誠司さんが改札を通ってきた。彼の顔を見たら疲労感は一気に飛んで、全身の血行が良くなって体温が急激にあがって、全身が火照った。
「ごめん。待たせて」
小走りでわたしに近づき、そう言った。
「いえ、全然」
誠司さんの笑顔を見て、気絶しそうになった。なんとか正気を保って、並んで映画館に向かった。
誠司さんが好きだ。誠司さんに男性的な魅力を感じているわけではなく、人として好きだ。会えない日は息が上手にできなくなるくらい、好きだ。
自分の性別が曖昧なこと、恋愛感情を持っていない自分のことを他人とは違う特別な人間だと思っていたから、わたしはいつしか小説家を目指していた。だけど五年で挫折した。気づいたことは、わたしは凡人で、空が青いとか夏は暑いとか冬が寒いとか、そんなことしか感じられないし、それらを上手に表現する語彙がわたしの中には存在しないということ。
小説以上にやりたいことがなかったから、就職活動はろくにせず、新聞の折込広告を見て、地元の、通信学習教材の梱包と発送をする工場に勤めることにした。それから五年。仕事になんの不満もなく機械の隣で機械のように働いている。ただわかったのは、工場で働いていようが、ブティックで働いていようが、何歳でも「女」は「女」で、自分は「女」の輪の中には入りきれない。
きのうの誠司さんの姿が、目に焼き付いて離れなかった。仕事に集中しなければと思いながらも、誠司さんの姿が浮かんできてしまう。
「中条さん」
わたしは目の前の卵焼きを箸で取ろうとして何度も失敗していることに気づく。ここは工場の食堂で、いまは昼休みだ。
坂本さんは呆れたように笑っていた。
「大丈夫?」
「あ、大丈夫です」
工場にいる女性は、四十代のひとが多かった。二十代はわたししかいない。
「なんか最近様子がおかしいけど、彼氏できたの?」
「いえ、彼氏では」
また頭の中に浮かんできた誠司さんの笑顔に胸が苦しめられる。
「中条さんはなんとかセクシャルだから恋愛とは無関係なんでしょ」
坂本さんの隣の原田さんはわたしを嘲笑した。
「あははは……そうですね」
わたしはこの話題をすぐに終わらせたかった。
工場に入りたてのとき、あまりに恋愛の話を振られるから「わたしはAセクシャルだから恋愛とは無関係なんです」とふてぶてしく言ったことがある。それは、わたしの人生で数少ない後悔していることのひとつだ。Aセクシャルとは「他者に恋愛感情や性的欲求を抱かない」セクシャリティのこと。わたしが高校生のときにテレビを観て知った。自分を説明するに適切だと思ったから、たまにそうやって他人に伝えていた。でも、この場では言うべきではなかった。工場ではすっかり「恋愛をしないおかしなひと」というレッテルを貼られ、恋愛ドラマの話やクリスマスなどのイベントが近づくと「中条さんには関係ないことか」とわざわざ言われることがあって、事実だとしても嫌な気持ちにはなった。
誠司さんへの気持に気づいたと同時に、わたしは自分はAセクシャルではなく、ノンセクシャルなのではないかと思い始めた。ノンセクシャルとは「他者に恋愛感情は抱いても、性的な欲求を抱かない」セクシャリティのことだ。いままで好きになれそうなひとがいなかっただけで、Aセクシャルだと思い込んでいたのかもしれない。
ベルトコンベアに教材を乗せながら、映画館で隣に誠司さんの存在を感じて胸が熱を持ったのを思い出していた。誠司さんは背が大きいし、顔が大きい。顔のパーツひとつひとつも大きい。だから、余計に存在を感じられるのかもしない。映画よりもずっと誠司さんの顔を見ていたくなる。だけど、触れたいとか、ひとつになりたいとか、一般的に恋愛感情を突き詰めたその先にあるものに到達しない。「いまは未だ」ではなく、「永遠に到達しない」。自分のことだからそれはよくわかる。
誠司さんは、所謂売れてない俳優だ。
わたしの大学時代の友人が劇団をやっていて、新しい舞台をやるたびに毎回連絡が来る。それ以外で連絡を取ることなんてないのに、舞台があるときは必ず連絡が来る。年に一回くらいは行くことにしていて、そのときの舞台に出ていたのが誠司さんだ。舞台の内容は「主人公が拾った犬が実は宇宙から送られてきた使者で、その犬のアドバイスに従って迫り来る悪の勢力と戦う」というコメディだった。話は別に面白くなかったけれど、舞台に立った十人強の中で、誠司さんの存在だけが圧倒的に光っていた。彼の演技が、声が、ことばの置き方が、簡単に言うなら「刺さった」。彼という存在が、わたしにめちゃくちゃ刺さったのだった。
わたしは友人を通じて誠司さんの連絡先を知ることとなり、最初に会ったときは舞台を見て感じたことを一方的に語ってしまった。誠司さんはひたすら照れ笑いをして、「恐縮です」と繰り返した。そのときの彼のリアクションも好きだと思った。
たとえ「売れてない俳優」と言われていても、「表現」の神に見捨てられたわたしからすると、めちゃくちゃに尊敬できる存在だし、素直に凄いことだと思う。舞台の上に立って演技をするなんて、誰でもできることではない。
誠司さんに会うときは、見栄えのいい「女」になろうとした。わたしが女としての振る舞いがわからないことは、じぶんのセクシャリティとは別の話だ。三六五日のうち、だいたいの日がどうでもよかったけれど、誠司さんに会う日だけは特別だ。誠司さんに女性として見られたいわけじゃなくて、誠司さんと隣に歩くのに恥ずかしくない人間になりかった。そのために女に偽装する必要があるのかと自問するけれど、そうしたほうがいいなと思うわたしも結局「世間」に合わせているのだと気づく。
次に誠司さんに会えるのは来週の水曜日でその日まで生きていられる気がしない。誠司さんと出会うまで、毎日が単調に過ぎていたのに、所謂「普通の日」が苦しいものに変わってしまった。
その日の誠司さんはジャケットを着ていて紳士的で魅力的に感じた。新宿のイルミネーションが見たいというから南口で待ち合わせして、サザンテラスのほうを歩いた。
無数のイルミネーションが、木々に巻き付けられて遠慮なく光を放っている。あまりの光の強さに眩暈を起こしそうになった。
「俺みたいな人間がイルミネーションなんて小っ恥ずかしくて」
笑うと八重歯が覗くのが可愛かった。
「一緒に行ってくれるひとなんていなかったから」
歩いている最中、誠司さんの手がわたしの手に触れた。そのまま手をポケットにしまおうとしたら、誠司さんがわたしの手を掴んだ。心臓が高く跳ねた。嬉しかったからじゃない。急に、怖くなったのだった。
イルミネーションの海の前で立ち止まった。電力を無駄に消費する電飾をなぜこんなに綺麗だと感じるのだろう。残酷なものほど華美に感じるというこのはきっとこういうことだ。
真剣にわたしを見つめる誠司さんの目の中にはいまわたししかいない。演技しているとき、遠くを見つめる誠司さんの目を見てあの中に入りたいと渇望していたはずで、いままさにその状況にいるのに、わたしは震えていた。
わたしの異変に気づいたのか、誠司さんは慌てて手を離した。
「ご、ごめん」
彼はジャケットのポケットに手を隠した。
「あ、違うんです。わたし、びっくりして」
「急にこんな、ごめん、ちょっと俺盛り上がっちゃって」
誠司さんは足早に歩き出した。わたしは誠司さんの隣を歩けなくなって、ゆっくりと彼の後ろを歩き出した。
気まずいまま韓国料理を食べて、ぎこちない会話をしてその日は別れた。もう会えない気がした。もう、終わってしまう気がした。
家に帰り、どうしようもないもやもやと向き合っていた。
たとえば、あそこのビルの階段の形が変わっているとか、あそこのカフェの珈琲が美味しいとか、そういうことを伝え合える関係でよかった。でも、「普通」の男女はきっとそれだけでは済まない。
手を握られたのが怖かったわけじゃない。誠司さんに「女性」として好意を持たれることが怖かった。だったら「女」として見られる格好で行かなければいい。つくづく矛盾している。
翌日、ひたすらベルトコンベアに教材を流しながら、ひっそりと泣いた。なぜ涙が出るのかわからなかった。
昼食のときも、小休憩のときも誰とも喋りたくなくてずっとトイレにいた。
「具合悪いなら帰れば?」と誰かに冷たく言われたけれど「大丈夫です」と返した。
わたしは誠司さんというひとを男性としてではなく、人間として好きで、失いたくなかった。こういう感情を誠司さんにも強要するなんて絶対無理な話だ。
家に帰ると苦しさは増した。することがないと、考えることはそれしか用意されていない。
普段は電話なんてかけないのに、向こう見ずに誠司さんに電話をかけてしまった。彼は二コール目で出た。
「織ちゃん?」
「あ、誠司さんこんばんは」
「こんばんは。何かあった?」
誠司さんはいつも通り優しい口調だった。
「あの、誠司さん。きのうはごめんなさい」
きのうのこと。自分のこと、セクシャリティのこと。自分のことばかりを話してしまったけれど誠司さんは優しくきいてくれた。
「突然、すみません。こんなこと」
「ううん。話してくれてありがとう」
そう言う誠司さんの顔が想像できなかった。彼は俳優だから、優しさを演じていたのかもしれないなんて普段は考えないことを考えてしまった。
「また、俺から連絡するね」
つまり、お前からは連絡してくるなということだ。
「電話ありがとう。おやすみ」
「おやすみなさい」
布団に突っ伏して、泣いた。自分の涙で溺れそうになるくらい、鼻が詰まって、息ができなくなるくらい、泣いた。
毎日ときめくことも、珍しいこともない日常に再び引き戻された。最初はめちゃくちゃ辛かったけれど、その辛さもだんだんわたしの中から存在感がなくなっていって、少しずつ粉々になって消し飛んで行った。もともと知らなかった誠司さんというひとがわたしの中で大きくなりすぎていただけで、わたしが彼を知っていた時間よりも、知らなかった時間の方が圧倒的に長いから、すぐになんともなくなる。きっと。だけど、どうして彼の存在だけが、わたしの胸を射ったのか。そういうことはいまは考えないようにしていた。
ベルトコンベアの規則正しい音が心地よかった。わたしもこんな風に一糸乱れぬ生き方がしたい。人間として、女として生きるのが難しいなら機械になりたい。
死んでしまいたいとは決して思わなかったけれど死んでしまいそうだった。そういうのが大体一ヶ月くらい続いた二月のある日に誠司さんから「来週の木曜日に会いましょう」と連絡が来た。以前だったら飛び上がるほど嬉しかったのに少しだけ億劫だった。そう思いながらも約束を取り付けた。誠司さんに会えることが決まっても、こころは萎れたままだった。
誠司さんの友達のインディーズバンドのワンマンライヴに行くことになり、渋谷の道玄坂のライヴハウスの前で待ち合わせた。ギリギリの精神力で、なんとか彼に見せられる格好で待った。いつも待ち合わせには早くついてしまう。
開演時間の十五分前だったからライヴハウスの前にひとだかりはなく、十分前に誠司さんが来た。
「ごめんね、また待たせちゃって」
「いえ、大丈夫です」
誠司さんは短い青色のコートを着ていた。ジャケットよりも彼に似合っているし、こちらのほうが好みだ。
誠司さんがチケットをくれて、代金を払うと言っても断られた。
中に入ると客は七割くらいしか入っていなくて、観やすくてよかったけれど、バンド的には有難くない状況だと思った。
十九時になり、会場が暗転し、曲が始まった。三曲連続で演奏され客はやや盛り上がっていたが、自分には合わない。爽やかなギターロックだったけれど、歌詞も曲もありがちで、退屈だった。
「出ようか?」
「え、いいんですか」
「うん。ライヴに来たということは事実だから」
誠司さんは先陣切ってライヴハウスを出た。
「ちょっと歩くけど、一緒に行きたい場所があるんだ。いいかな?」
「はい」
わたしは誠司さんに従って、センター街を通って、スクランブル交差点を抜け、渋谷ヒカリエの中に入った。どこを歩いてもひとがまとわりついてくる感じがするし、いろんな匂いがする。
十一階にのぼるとガラス張りになっていて、渋谷の街が一望できた。行き交うひとたちが、本物に思えないくらい小さくて何かの映像を観ているような気分になった。
「すごい。初めて来ました」
「上の階の劇場に行くとき、気付いたんだ」
夜なのに渋谷の街はいろんな色の光が散らばっていて、渋谷の空は確かに明るいのだとわかった。街を歩いていると歩きづらいとかいろんな匂いがするとかそういうことしか感じられないけれど、綺麗だと思った。
「結構ここ、好きなんだ。俺、人ごみってあまり好きじゃないんだけどこうやって見るとみんなそれぞれ目的があって行動してるんだなってわかるし。どういうひとなのかなって想像するの面白いじゃん」
窓を見ている誠司さんの横顔を見て、ようやく気持ちが落ち着いた。
「たとえばあのふたり。ただの夫婦に見えて実はマフィアなんじゃないかとか。あの派手な女のひとは田舎を出て弟や妹たちの生活を助けてるんじゃないかとか。いろんなひとが、いるよね」
やっぱり誠司さんのことが好きだ。だけど、わたしには「好き」という感情以上のものは、ない。
「織ちゃん」
誠司さんは街のひとを見て妄想するのをやめてわたしを見た。
「俺は、織ちゃんのことが好きだよ」
どんな顔をして、どんなことばを返せばいいのかわからなくて、多分変な顔をしていたと思う。
「織ちゃんと一緒にいるとすごい嬉しいし、織ちゃんの持ってることばが好き。この前電話をもらってから、俺ずっと考えてたんだけど」
誠司さんは目だけで上を見て、瞬きをして、決意したように大きく息を吐いた。
「俺は、織ちゃんがしたくないことを、したいと思うほうの人間だと思う」
こころが一気に冷えた。誠司さんというひとに冷めたのではなく、体温が一気に下がった。この場から逃げたい。できることならこのまま消えたい。
「でも、織ちゃんがしたくないのに無理矢理したいとは思わないよ」
「え……」
「まだ、わかんないことだらけだけど。どうしたらいいのか、これからどうなるのか、わからないけれど。ほかのひとがどう、とかじゃなくてさ、俺たちだけの方法を見つけだせばいいんじゃないかな」
わたしは誠司さんに背を向けた。背を向けて顔を両手で覆って泣いた。そのまましゃがみこんでしまった。
誠司さんはわたしの前に回り、一緒にしゃがみこんでわたしの気が済むまで待ってくれた。
営業終了時間まで街を見てふたりでずっと妄想をしていた。楽しかった。ほかのひとと同じことをやっても面白くなかったかもしれないけれど、誠司さんなら安心して言いたいことが言えたし、思い切り笑えた。
ヒカリエを出て、わたしは誠司さんの後ろを歩いた。
「誠司さん」
「ん?」
「好きですよ。会えない日は、死んでしまいそうになるくらい好きです」
わたしがそう言うと誠司さんは声をあげて笑った。
「会えない日も生きていてね。死んでしまったら、会えなくなっちゃうから」
「はい」
誠司さんはズボンで手を拭いて手を差し出した。
「触れても、いいかな」
「もちろんです」
わたしも手を出して、ゆっくりと握ってくれた。誠司さんの大きな手の感触とか、温かさから血が通っているということがわかって、わたしと同じように生きているんだということを改めて感じた。
どんな風であってもわたしたちは単なる人間という生き物だ。
わたしたちも渋谷の街の背景のひとつに溶け込んだ。わたしたちを見て誰かも妄想するのかもしれない。できれば、幸福なふたりだと、誰かから見てもそう思われていたら、いいな。
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2018年11月25日 第27回文学フリマ東京で初出の短編集『平成処女』に収録。
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