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デザイン教育のデザイン——4: 教員と受講生の対談①タイポグラフィ編

「デザイン教育のデザイン」として、筆者が2009年から2021年まで携わった美術系専門学校4年制デザイン学科の教育プログラム、その設計プロセスについてこれまで四回にわたり記事を公開しました。想像以上に読んでいただいていること、とてもうれしくおもいます。

デザイン教育のデザイン
0: はじめに
1: デザインの定義をする
2: デザイン教育プログラムの設計と可視化
3: デザイン基礎過程の考察と実践

これからしばらくは各領域における、担当教員と受講生の対談記録を紹介してゆきます。デザイン教育プログラムを実践するにあたり、教員がどのような意図で授業を設計し実施したのか。そして受講生の立場から、その教育効果や経験はどのように実感したのでしょうか。

最初に紹介するのはタイポグラフィ領域から。担当講師 河野三男さんによる対談です。『タイポグラフィの領域』や『評伝 活字とエリック・ギル』『欧文書体百花事典』(いずれも朗文堂)など。タイポグラフィに関する執筆で知られる河野さん。実はとても熱心なタイポグラフィ教育者でもあります。

このデザイン教育プログラムのデザインができあがった要因のひとつには、河野さんのタイポグラフィとその教育の知見が、おおきく存在します。それは(すくなくとも国内において)稀有な体系的メソッドかもしれません。受講生との対談のなか、その一片をご覧いただけたら幸いです。

教員と受講生の対談①タイポグラフィ編

タイポグラフィとは規格化された文字(活字)を組み、文章をあらわす技藝です。わたしたちは、ことばをもちいてコミュニケーションをおこないます。それらが可視化された文字は、視覚コミュニケーションにおける礎となるものです。現在では、Eメールをはじめ、専門家以外でもさまざまな場面で活字をあつかう機会がふえています。しかし、これらは言葉づかいや書道とおなじように、歴史のなか育まれたさまざまな作法が存在します。本専攻では、これをコミュニケーションデザインのかなめとし、一年次から四年次にかけて段階的にまなべるプログラムを用意しています。

本学では一年次後期の「和文タイポグラフィ」にはじまり、二年次では前後期「欧文タイポグラフィ1・2」、三年次は「タイポグラフィコンポジション」「タイポグラフィ(InDesign)」「ブックデザイン」と、ひとつの活字のあつかいからはじまる総合的な造本術としてプログラムされています。「和文タイポグラフィ」「欧文タイポグラフィ1・2」を担当される河野三男講師と、これら一連の授業を受講された四年生の H さんをお招きしました。この授業であつかわれるタイポグラフィというものは、いったいどのようなものなのでしょうか?

タイポグラフィとはなんだろう?

河野  日本語をあつかう「和文タイポグラフィ」、それから欧文、とくに英語をあつかう「欧文タイポグラフィ1・2」を担当しています。タイポグラフィとは活字書体をえらび、組み、ならべる、いわゆる組版、文字組みというものです。その分類やあつかいに触れてゆく授業内容となっています。

———河野先生の授業では、歴史というものもひとつの要になっていますが、それはタイポグラフィの最初である、ヨハネス・グーテンベルク以降ということになりますね? いっぱんにデザインの教育であつかう歴史となると、ともすればモダンデザイン、つまり 20 世紀以降のはなしが軸となることがほとんどですから、随分とレンジのひろい歴史をあつかうこととなります。その発生から 600 年ほどがすぎた、いまの社会、そしてデザインのなかで、タイポグラフィというものは、どのような役割をになっているのでしょうか?

河野  当時も現在も、文字情報を整理するという目的はかわりません。情報をつたえたいひとがいて、その受け手がいる。そのあいだ、つまりメディアとしてどのように仕事をするのか? そこでは双方への把握が必要となります。つたえる立場をどう理解するか、そして、受け手はどうすれば読みやすいかたちで受け取ることができるか? それをかんがえることが、この授業のかなめとなります。文字のないヴィジュアルコミュニケーションデザインは存在しません。タイポグラフィをきちんとあつかうことは、デザインの質の向上において不可欠なものです。

活字、そしてことばを組むタイポグラフィ。

———Eメールや SNS、ワープロアプリケーションなど、現在ではさまざまな場面で、おおくのひとたちが読むばかりでなく、じっさいに活字をあつかい文章表現をおこなうようになりました。そうした状況において、専門家としてもとめられることはなんでしょうか?

河野  だれもが活字、そして文章をあつかう時代だからこそ、プロフェッショナルとしてどうすればいいのか? この授業はその入り口となるものです。本来的にタイポグラフィとは書籍本文などの文字組みをさすものですが、ここではもちろんヴィジュアルコミュニケーションデザインという視点に集中しています。

ただ、どちらかといえば、デザイン業界におけるタイポグラフィは、画面造形の新鮮さ、奇抜さをもとめるあまり、基礎的な組版という部分は、おろそかになってきた傾向があります。ここではまず、文章をきちんと組むことを認識することからはじめます。文章をふまえ活字書体、そして組みをどのようにあつかうか、ということです。そして言語表記法としてのタイポグラフィを意識しています。

———おおくのデザイン学校でおこなわれている、タイポグラフィの授業はおっしゃるように、どちらかといえばレタリングやロゴタイプによったもの、つまり装飾的な要素として活字をあつかい、グラフィカルに仕立ててゆくものがおおいようにみえます。より本質的に、ことばを組むこと、組版をまなぶということは高度コミュニケーションデザイン専攻の特徴といえますね。

河野  授業の最初では「文字と戯れないように」とはなします。どうしてもデザイン学生は、お絵描きの延長で活字をあつかってしまう。もちろん、そうしたタイポグラフィがあることも事実です。でも、それが成り立つ場合はごく一部、むしろ特例といえるものです。もっと中心にある基本をしり、そこに軸をおきつつ手にするものでしょう。まずは正確で、読みやすく効果的な伝達をめざすこと。それだけでも、すぐにはみえにくい裏技的なさまざまな工夫が存在します。タイポグラフィということばにある認識の食いちがいや誤解をただし、その領域を意識してゆくことも授業でめざすところのひとつです。Hさんは「タイポグラフィ」の授業をうけるなかで、どのような意識の変化がありましたか?

———タイポグラフィは日常生活に溶け込んだ、めだたないというか……ふつうにあるのがあたりまえ、意識しないのがあたりまえというデザインですよね。それがゆえ正直なところ、受講するまでは簡単なものかとおもっていました。でも、実際にまなんでみると書体、文字サイズ、あるいは行間とか。そこでは数値化されているけれど、数字だけではたちゆかないものであることがわかりました。こんなにも複雑で、注意することがたくさんあると。知識も当然必要だけれど、それだけでできるものではなく。この授業でタイポグラフィの難しさ、奥行きをしることができました。
 

「そもそも」からしっかりと積みたててゆく授業

———河野先生の授業で配布された資料は、いまでも読み返しています。制作を繰り返してゆくと、どうしても自分の癖ができあがってしまって、わるいところを見落としてしまうようになる。そうしたとき「あれ、どうなっていたっけ?」と立ち返られる基準があることは、とてもおおきなことです。

わたしは高校のデザイン科出身ですが、そこではタイポグラフィという授業はなく、印刷技術としての活字にふれる程度でした。その時点でくわしいことはわからなかったし、そこにデザインがあるという意識はまったくありませんでした。いろいろな美術大学や専門学校を見学したのですが、レタリングやロゴタイプ、タイプデザインをタイポグラフィ課題と紹介されていて、こうしたものなのかな? と意識するようになりました。

でも、ここで授業を受けることで、そればかりではなく、活字を組むということもデザインだと意識するきっかけとなりました。どうじに、その難しさも自覚することになりましたけれど……。

河野  じつはHさんの習った「印刷技術」こそ、本来のタイポグラフィのことなのです。でもデザイン学生のために、東洋美術学校のようにタイポグラフィの範囲を網羅する教育は、国内ではめずらしいのではないでしょうか。たしかにユニークなタイプデザインや文字構成も不可欠な要素です。でもそれだけでは、タイポグラフィは成立しません。おおきな体系の、ごく一部ばかりを抽出して教育することには違和感をおぼえます。けっして、それら独立した要素だけでできるものではないのです。

この授業では独自のシラバス、つまり体系的でくわしい学習過程の綜覧を用意し、前回まなんだことをもとに、すこしずつ難易度があがるようにしています。生徒のことばにたいする理解力や発想力、言語能力を刺激する工夫とでもいいますか。

 ———タイポグラフィの授業は、そうした体系がしっかりしている印象があります。1 からはじまり、10 ……いや、先生のなかでは、けっして 10 とはいえないものかもしれませんが(笑)順序立てて理解がしてゆけます。河野先生の場合、まず、ことばの定義からはじまるようなこともおおい。

河野  授業では「そもそも」ということを、いつも気にしています。たとえば漢字とは、かなとは、ルビとは、名刺とは、イニシャルレターとは、そもそもなんなのか? とか。紙とはそもそもなんなのか? だとか。あるいは、そもそもタイポグラフィとはなんなのか? と。そもそもからはじめないと、きちんと理解はできない。

タイポグラフィには、おもにはふたつの視点が必要になります。みる文字があり、読む文字があります。そして、それぞれにあわせた活字書体が存在する。みるときは、目立って個性的で目をひく活字書体で、ことばの意味を増幅する必要がある。いっぽうで、読むときは個性を抑えた活字書体で、思考や意味の流れを支援して、文章が読みやすくなるようにしてゆく必要があります。

授業では最初に、その日のテーマを紹介します。活字書体の分類、活字書体の歴史、本文組み、ヒエラルキーにグルーピング……毎回さまざまです。解説をおこなったあと、課題を出題、各自演習をおこなうことになります。

———授業のなかで「デザインを日本語で説明してください」というものがありましたよね。わかっているようでいて、全然わかっていないことに気づかされました。「そもそも」というのは、見落としがちなことです。

ほかにも欧文組版におけるイタリック体やアンパサンド(&)のあつかい、大文字と小文字の関係性や目的におうじた使い分け。そのあいだにあるスモールキャピタルの存在。それからアポストロフィやクオテーション、ダッシュといった各種記号のつかいかたに、時刻や日付の表記などなど。それぞれに意味や作法があることを河野先生の授業をつうじてしることになりました。

わたしがこの専攻に進学したのは、本をつくりたい、本のデザインに携わりたいというおもいからでした。授業がすすむにつれ、それにはタイポグラフィが不可欠なものだと気づきました。活字や行のこまかな数値規格をもとに、本ができているとしることができたのもおおきなことです。

こうして、こつこつと積みあげるものが性にあったのでしょう。この授業で培ったスキルが自分自身の核になっています。ふだんから本や雑誌、カタログやパンフレットをみても、文章の読みやすさが気になるようになっています。いまはただ……タイポグラフィがたのしいです。

タイポグラフィには、活字規格にもとづいた画面造形という性格もありますね。それが画面の構造と基準、つまりグリッドシステムになってゆく。最小単位の活字で、最大である画面をコントロールしてゆけることも特徴のひとつです。河野先生は授業をつうじて、つぎの世代にどのようなことをご期待されていますか?

河野  紙のメディアにくわえ、スクリーンメディアが主流となってきています。実際、スクリーンメディアの世界でタイポグラフィに興味をもつひとも大勢いらっしゃいます。いずれはこれも成熟してゆくでしょう。

ひとが文字、ことばをあつかううちはタイポグラフィが存在することはまちがいありません。「ことば」があって、「文字」となる。そして文字が「活字書体」となってひとの目に触れてゆきます。この流れを意識できることが重要です。なぜ、タイポグラフィをまなぶのか? 授業では、そのヒントをあちこちひそかにバラまいています。もちろん、その受け取りかたは生徒次第です。

ヨーロッパにおいて、こうした視点でタイポグラフィをとらえることは基本にあります。それは、表にはでてこない、地味でこつこつとしたものですが、だれかがやらないといけないことです。イギリスのタイポグラファであるフランシス・メネルのいうように、書物づくり、つまりタイポグラフィは、著者すなわち文章の書き手への奉仕ともいえるものですから。

———石に文字を刻んだころから、書写を経て、木活字や金属活字が誕生し、それが写真植字、デジタルタイプとなってきました。いずれも本質は同様で、ことばをいかにつたえるか? というものには変わりませんよね。それは視覚コミュニケーションにおける要であるといえます。

いちど映画『ヘルベチカ 世界を魅了する書体』(ゲイリー・ハストウィット監督, 2007)を鑑賞して、みなではなしあったことがありました。活字書体ひとつであれだけ論争があることには、正直、おどろきました。しかも、それが文字というみるもの、読むものなのに、視覚的な造形物としてばかりでなく、社会背景とひもづけながら語られていたことが印象的にのこっています。すくなくとも、わたしたちまわりではありえないことでしたから。タイポグラフィへの認知度の差を痛感しましたし、それだけ気を使わないといけないものなんだなとかんがえさせられて。

河野  あの映画は海外におけるタイポグラフィの社会性を象徴しています。活字書体は時代のなかでうまれるものです。あるときは権力者が統治をするため、またあるときはそれと対抗するため。その背景には政治や民族、宗教、社会の歴史が存在します。タイポグラファが造形ばかりでなく、その背景をかたることの重要性が『ヘルベチカ 世界を魅了する書体』ではうきぼりになっています。

タイポグラフィであつかわれるのは、言語があらわすものが、いったいなんなのか? それを議論することが大切です。タイポグラフィの裏側にあるものについて、それぞれが意見を重ねることが、つぎへのきっかけにつながります。

わたしの場合、べき論というか、授業で強制することはありません。ヤン・チヒョルトのことは尊敬していますが、彼の断定的な言説には賛成できません。みな、それぞれにかんがえてほしい。わたしはそのきっかけをつくっています。

タイポグラフィをまなんでみえるもの

河野  わたしの授業では、毎回の課題で感想を書かせています。どういう気づきがあったのか? どうおもったのか? とか。H さんは、ときどき、しっかり質問をしてくれていました。文章を書くことで学習内容への複数の視点がうまれてきます。やはり、文章が読めて書けないとたちゆかない。最近は留学生のほうが、日本人の生徒の一部よりも、しっかりとした文章を書くことがおおいです。語彙力もあります。自身のかんがえを伝達するために懸命に文章を書いています。

文章の作者はなにをつたえたくて、それをタイポグラフィでどうあつかうのか。つまり、ことばを、どんな活字書体で、どう組むのかについて悩むことが大切です。

———自身が作成したデザインの根拠を、言語化してつきつめたいけれど、なかなか……難しいものですね。

河野  世の中にはたくさんの教科書や、ハウトゥー本のたぐいが出回っています。しかし、それらのおおくの場合、どうしたときにふさわしいのか? とか、どうしてそうなるのか? と根拠には触れていません。フォーマルなシーンのものなのか、インフォーマルなものか。あるいはカジュアルなものなのか。かたちばかりでなく、なぜ、そうなるのかかんがえるきっかけをあたえないといけません。

とくにフォーマルなものは教わらないとわからないものでしょう。それらには歴史のなかで培われたスタイルがあるものですから。スタイルを覚えないと壊せません。茶道でいう守破離。わたしの尊敬するデザイナーの白井敬尚さんなんかは、スタイルを理解しているからこそ壊せていますから。

———一年次と二年次に河野先生の「和文タイポグラフィ」「欧文タイポグラフィ1・2」を受けてから、その後「タイポグラフィコンポジション」「タイポグラフィ(InDesign)」「ブックデザイン」と一連のながれを経験してみると、それぞれの授業であつかう内容が水面下では通じていることがわかります。よりかんがえが深まってゆくというか。はじめはわからなかったことも、あとになって理解することもしばしばあります。ああ、河野先生がおはなしされていたことは、これか ! と。 

河野  こうして理解してくれた生徒がいると嬉しいものです。さきほど話にでた感想文も予想外のものがあったり、そうした反応をみるのは楽しいですね。

———河野先生は毎期とてもこまやかな採点をされています。これだけの課題の量であの採点というのは、毎度圧倒されてしまいます。生徒の感想にも、それぞれしっかりコメントを書かれていますよね。

このまえ積みあげてみたのですが……そうだな、高さ 20 センチほどになりました。もうファイルには入りきれなくなって、カゴにいれています。どの講義や課題も印象深くて、ちゃんと赤入れと、コメントがあるので、がんばってよかったな……と達成感があります。河野先生には、これからも生涯にわたっておしえていただきたいです。

河野  いえいえ。あとはつぎの世代にゆずるばかりですから……こうしたタイポグラフィ教育の場はめずらしいものかもしれません。おおくのかたが活字をあつかい、デザインに興味をもつ時代だからこそ、その真のプロフェッショナルの技を身につけられるようにしてゆきたいものです。

河野三男(こうの・みつお)
1949年東京都生まれ。欧文タイポグラフィを長年探求している。英国の大学出版局・東京支社での(英語教育教材出版部及び営業部)勤務を経て、現在は欧文タイポグラフィ関連の著作・論文・記事・雑文などの執筆と専門学校非常勤講師として活動。その他、美術大学での特別講義をはじめとしてデザイン会社や勉強会での出張講義などの経歴あり。


18 February 2024
中村将大


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