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2つの目。

<この記事は2020年3月のコロナ禍に書かれた記事です。卒業に際して、対面でメッセージを送ることができなくなったので、その代わりに書きました。>

私の勤める大学の卒業式が中止となってしまいました。楽しみにしていた学生の気持ちを考えると、身も裂かれる思いですが、卒業というタイミングは、学生が社会へ旅立つ節目でもあるので、特にクリエイティブ系の学校を卒業する学生へ向けての話を書きたいと思います。

よく社会人が「学生時代はよかった」とか、学生に向かって「(学生である)あなたの立場がうらやましい。」と言います。本当にそうだと思います。プロは「与件」と呼ばれる様々な条件のもとで、ものをつくっています。予算や納期などの経済効率性や、その世界のしきたりや戦略的なこと等、組み込むべき条件は無数にあります。理屈が通らない場面もうんざりするほどあるでしょう。学生は条件を想定して作品を作る場合もありますが、基本的に自分の解釈や嗜好で、自由に作品づくりができます。

学生が条件から自由であることは、けして逃避ではなく、むしろとても良いことなんです。例えば商業的なデザインでは社会的にネガティブだったり、賛否両論があるイメージを含んだ表現はたいてい否認されます。長く仕事をしていると、発想の範囲が矯正され、自由な考えに至るのが難しくなります。つまらない大人になるということです。だからプロの多くは学生の作品を見て「自由でうらやましい」と考えるわけです。

学生が自作をSNSに上げると、ときおりバズって、見知らぬ人が好き放題に評価しはじめます。「こんな素敵なデザインが世の中にあればいいのに、なんでないんだろう?」「販売検討してください!」「プロのデザインよりすごい!」と疑問や要望、感嘆の声を上げる人もいます。ほんとうは、学生のデザインの多くは経済効率性から自由で新鮮で、何も恐れない大胆な視点があるから(つまり実現が困難だから)魅力的なのです(大人の負け惜しみかもしれないですけどね)。

逆に大きくバズった作品は、そのデザインの文脈や背景、また専門性を理解していない人から、心ない批判を浴びせられることがあります。残酷なことにこれも社会の目にさらされる、ということの縮図です。多くの称賛の中で、たった1つの批判が創作者を傷つけることも多いです。たった1人の無理解なクライアントによって、優良なデザインが棄却されてしまうように。社会では「何も知らないくせに(専門でもないくせに)、偉そうに言うな、ノリで選ぶな」という反論が通用しないことがよくあります。多くの選ぶ人は、使う人は、デザインの素人です。

SNSではたまたまその作品を見かけた人がその人の嗜好や状況(SNSの場合「好み」「琴線に触れた」などでしょうか。)で感想を送ります。共感できたり同じ価値観の人とつながることができて、これはとても良いことだと思います。いっぽうデザインを納めて報酬をもらうような場合「外の声」は上司だったり、代理店の人だったり、お客さんだったりすると思うのですが、それぞれの立場や都合によって判断がなされます。社会では同じ成果物でも、判断の軸足が相対的にコロコロと変わっていくのです。

これに対して教員は、専門家としての観点から、学生がつくった作品の文脈をなるべく良心的に読み解こうと努力します。さらに、学生が成長過程のどんな位置で作品を作ったかという、本人と作品の関係性も念頭においた話をします。それが「いわゆるグラフィック」でなくとも、映像作品だろうと、2次元キャラだろうと、表層や自分の嗜好だけでは判断しないように気をつけています。教員の仕事は、学生という個人を長期的に見つめ、作品の判断の軸足を、学生の成長という目的に沿って支え見守ることでもあります。これは教員と学生の間に「制作物を介した利害関係」がないからこそできることで、学校で得られる一番の価値だと思っています。

社会に出てクライアントなどの評価者が、それぞれの立場や思惑で好きに批判するとき、これまで自分と作品を同化させてきた学生にとって、その声は自分自身を傷つけられるようでとても辛いこともあるでしょう。

忘れないで欲しいのは、社会では作品と評価者との間に(利害関係を伴う)相対的な関係があることで、そしてこれに対抗しうる策は、あなたと作品との間にも、冷静な相対的関係を築いていくことなのです。作品への批判は、けしてあなた個人への批判や攻撃でなく、ある状況下で、評価者がたまたま推奨できないと判断したものだった、それぐらいのことなのです。

この仕事を20年もやっているとデザイン作業の合間に、ずっと独り言を言っている自分に気づきます(弊社スタッフのみなさん、うるさくてすみません。)分析してみると、作り手としての自分と、評価者としての自分の掛け合いのひとり漫才のようであることに気づきます(「これいいやろー」とボケて「いやいや、面白いけど全然使えんやろー」とツっこむ、というような)。

ひとり漫才は作り手としてある種の成熟した姿と考えられます。つまり、客観的なもう一人の自分を立ててあげて、成長していく私、という存在と、今の自分にできる範囲の技術で生まれた作品、と、2つの存在をうまく切り離してあげることが、クリエイティブの仕事を心健やかに長く続ける上で、大切なことだと思います。

そのときに、きっと大学や専門学校で学んだこと、身に付けたことがあなたを支えてくれるはず。相対的に変わっていく社会の価値、利害関係によってコロコロと変わっていく評価との関係の中で、自分の価値観という大きな軸足を認めてくれていたのが、実は学校という場所だったと気づいてもらえるのではないかと思います。

その輝きは、あなたがどんな立場にさらされようとも、色あせることはありません。あなたが自分の手で手に入れた宝物だからです。そういった価値観、考え方を含めて「デザインの技術」です。もしその宝物を心無い人に見つかり、批判にさらされそうになったそのときは、一度箱にしまって忘れたふりをして、またときどき取り出して磨いてあげれば良いのです。きっとその価値を認めてくれる人と出会える日が来るでしょう。

自分の教え子が毎年大きな波に乗り出してゆきます。もしその波に揉まれそうになったら、彼らの成長物語を共有してきた仲間として、また、同じような経験を乗り越えて生きてきた先輩として、お茶でも飲みながらゆっくりと話をしたいな、と考えています。

みなさん卒業、おめでとう。



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