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【短編小説】「田中くん、きみは心を見つけたんだね」木陰から佐々木先生が現れた。

 佐々木先生いわく、人間はすべからく正しい道に進むことができるのだという。たとえ一度間違えたとしても、必ず正しい道に戻ってこれるのだと。典拠を示して、とぼくが言うと先生は「そんなものは必要ないわ、心に従えば良いのよ」と意味の通らないことを言った。ぼくは驚いて食べかけのブドウ飴を落としてしまい、足元に蟻が群がってきた。


 解剖学の資料をひもといても、どこにも「心」という器官は見つからなかったから、考えられる可能性は二つだけだった。一つは解剖学者たちが見落としてる。もう一つは佐々木先生が嘘をついてる。ぼくは解剖学者を尋問することに決めた。


 電話口でぼくは解剖学の学徒にこう告げた。「隠蔽は最も醜い行為である。それは学術的成果の独占、反民主主義、国家への造反、理性に影をつけるならず者どもにはしかるべき罰を!」
 この勢いのままに解剖学者たちの本拠地である河川敷に赴くと、彼らはぼくを一目見るなり口元に卑屈な笑みを浮かべた。こぼれた黄色い歯に「なんだ、まだ子供じゃないか」という文字が小さく彫り込まれているのを僕は見逃さなかった。たしかにぼくはまだ7才で小学生という身分だけど、だからといって発言してはならないというわけではないはずだから「諸君、ぼくが諸君らの元を訪れたのは他でもない。秘匿された情報を、公共の利のために開示していただくためである。心についての解剖学的知見を公開することこそ、諸君ら碩学に課せられた義務であり、契約だろう。諸君らの行為は潜在的国益を損なう見下げた愚行である。」と言ってみた。


 で、解剖学徒の応答を要約すると「心という器官は存在しない」とのことだった。解剖図も見せてくれた。
「ほら、人間の身体ってのはぎゅうぎゅうに詰まってるんだ。心なんて入れておくスペースは、人体のどこにも残ってない。」


 途方に暮れるぼく(だって佐々木先生が嘘をついていたなんて、とても信じがたいことだからね……。)を憐れに思った解剖学徒は「あるいは、脳があやしい。これは脳と呼ばれているだけで、その本質は心かもしれない」と教えてくれた。ぼくは、心配してくれる彼らに気を遣って元気そうな笑顔をあとに残して脳科学者の住処をめざしたけど、絶望的な気分だった。学者たちは手を振って見送ってくれた。


 蜩の鳴き声が大きくなってきたので樹上を見上げると、案の定、脳科学者がコアラのように木に抱きついていた。春に聞こえる蜩の鳴き声は、すべて脳科学者の泣き声であるという俗説がいま立証された。
「おーい!」
 声が届くまで20秒かかる。音というのは1秒に340メートルしか移動できないと決まっているから仕方ない。
「誰だーい?」
 脳科学者の声が聞こえるまでのあいだ、ぼくは木の根っこにうずくまるSF作家に気を取られていて20秒という時間が気にならなかった(これが有名な相対性理論)。SF作家は嘆いていたけれど英語だったので意味が分からなかった。あるいはソネットだったかもしれない。


 脳科学者はきっと寂しかったのだ。地上から返事が戻ってこないので不安になって改めて「誰だーい?」と樹上から叫んだ。今度は聞き取れたので(なぜならSF作家への関心は40秒ももたなかったから)ぼくは「質問がありまーす!」と叫んだ。そのときの脳科学者の表情は筆舌に尽くしがたい。いつもひとりぼっちだった子供が、公園で初めて同い年の子供に声をかけてもらったときのような、あるいは暗がりに沈んだ表情でぶら下がる柿の実に不意の夕日が差すような、もしくは雨に濡れた犬を抱き留めたときの生臭い不快感の中のわずかなぬくもりのような、そんな素敵な瞬間を脳科学者は齢69にして初めて味わった。
「どうぞー」
「脳は心ですかー?」
「そーですよー」

「ありがとうございまーす。さよーならー」
 脳科学者は木から下りていた。SF作家は立ち上がり、新作の構想をそろそろ立てようかなと思い始めていた。ぼくはうれしかった、心の存在が認められたから。これで、いままで通り佐々木先生を肯定し続けることができる。
「田中くん、きみは心を見つけたんだね」
 木陰から佐々木先生が現れた。SF作家が急いで手帳を取り出してなにか書きはじめた。
『世界及び宇宙のおそらく1万種類くらいの科学法則を無視し、雌の人間が一人、木陰から出現した。ここは現実では無い……?』

[文学的想像力に優れた読者諸兄はおそらく、英語話者のSF作家がノートには日本語で叙述している事実に矛盾を発見されることだろう。だがこの矛盾はSF作家の性格を視野に入れることで直ちに解消される。すなわちSF作家はぼくを威圧せんとしてあえて英語をつかって内省してみせたのだ。これこそ知的防衛規制であり人間の最も自然な姿である]

 佐々木先生、ぼくは心を見つけました。彼は心を見つけましたよ、わしが教えてあげたんです、脳科学者ですから。すごいわね田中君。(SF作家の拍手)。私はね、ごめんね、田中君には心を見つけることなんてできないと思っていたのよ。そんな、どうしてそんなこと言うんですか、まあ、もう見つけてしまったから気にしませんよ。(SF作家の相づち)わしは見つけれると信じていたよ。田中くんはどうして心を探そうと思ったの?そりゃ、先生がきっかけですよ。私?そうです、先生が心さえあれば正しい道に進めるって言うから…。(SF作家の顔が深刻なものに変わっていく)本当に正しい道に進みたいの?わしから言わせてもらえば、正しい道とはそれすなわち脳科学の道ですがね。そりゃ、人間なら誰だって正しい道に進みたいと願うのではないのですか?心があれば、正しい道に進めるのではないのですか?ぼくには心が、あるいは脳が無いのですか?先生の言葉の意味を教えてください、ぼくは何者ですか?ぼくには正しいことができますか?ぼくはどうすれば良いのですか?ぼくはどうすれば良いのですか?ぼくはどうすれば良いのですか?(ぼくと佐々木先生の顔を心配そうに見比べ、気まずさを感じ取ったSF作家は一目散に逃げ出した。「これだから、人付き合いは嫌いなんだ。すぐ気まずくなっちまう…」)あらら、SF作家が帰ってしまわれましたね、用事でもあるんでしょうか、さて、わしも帰らせてもらおうかな。
 脳科学者が自然に帰った。佐々木先生は眩しそうに目を細めて(軽蔑するように、と表現するのは憚られた)ぼくを一瞥すると、そのままぼくの影に溶け込んだ。林冠の裂け目から、太陽の光がたっぷりぼくに降り注いだ。

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