無題

 何もかもが上手くいかないから、死んでみることにした。
 もちろんそれはイメージ上の話である。人は自らの死を想像すると、意思決定の精度が高まるのだとか。ものは試しでやってみることにしたのだ。
 さっそく自らの死を想像する。

 病床で横たわる俺。
「もうすぐ死ぬのか」
 誰に話しかけるでもなく呟いた。恥の多い人生どころか、ゆりかごから棺桶まで黒歴史で埋めつくされる程の人生だったな。
「何も残せなかった」
 親しい人たちのために残せるものは何もない。
 残ったのは小説投稿サイトとSNS上に書き散らかした小説のみ。作家を目指して執筆を続けていたものの、結局は一銭も生み出すことなく有象無象のアマチュアの一人として終わった。
 ――そういや最後に書いていた長編小説も、タイトルを決められないままだったな。
「だけど楽しかったな」
 これまでに貰ってきた沢山の人たちのコメントを思い出す。
 毎日のように読んでくれた人もいたし、SNSで拡散してくれた人もいた。そのどれもが心から嬉しいものだったし、本気で楽しいと思える時間を過ごしていた。作家として有名になることは無くても、その思い出だけで最高の人生だったと思う。
「お父さん!」
 病室のドアを開き、駆け寄ってくる娘。そして孫。それから……義理の息子。
「お前にお義父さんと呼ばれる筋合いは無いぞ」
「今わの際でまだ言うんですか!」
「何を。俺はまだ死な……ごふっ、ごふっ」
「お父さんっ! だめ、逝かないで!」
 ああ、娘よ。お前は妻に似て、本当に最高だった。来なくていいと言っているのに、最後まで病院に来てくれたね。
「お義父さん……」
 義理の息子。こんな悪態しかつけないくそじじいの悪口に、うっとおしい程に付き合ってくれたな。頼んだぞ、俺の娘を。
「おじいちゃん。もっと、おはなし、ききたかったな」
 ああ、孫よ。かわいい孫よ。俺ももっと、お前と話したかった。沢山の物語を聞かせたかった。俺の物語を聞きながら眠ってしまうお前だったが、それは俺の話が退屈だからではなく、空想の世界に入り込んでしまうせいだったのだと俺は信じているぞ。
「おじいちゃん。あのおはなしのだいめい、きまったの?」
 そうだ。孫はあの話が大好きだった。
 題名が決まらないままの、長編小説。
 ああ、視界がぼやけていく。――おお、我が最愛の妻よ。迎えに来てくれたのか。
『あなた。待ちくたびれたわよ。さて、宿題はやってきたかしら?』
 そう言えばそんな約束をしたな。くそ、覚えていやがったか。
『どんなタイトルをつけるの?』
 次に会う時までに考えておきなさい。それが妻が旅立つ前に交わした約束だった。
 はあ、マジで考えるの苦手なんだよ、タイトル。
 タイトルをつけるってのはな、鎖で縛ることと一緒なんだよ。
 それが何かを定義することは、他の何かであるということを否定することと同義だ。
 それは自由な創作の世界で不自由になることを意味する。そんなのごめんだ。最後まで自由でありたい。
「お父さん」
「お義父さん」
「おじいちゃん」
『あなた』
 こんなに愛されて、何も思い残すことは無い。
 でも、タイトルは思いつかないな。
 最後まで自由でありたい。
 そうだ、俺は何者かになろうとしていながらも、どこかで何者かになるのを恐れていたんだ。
 だったら、もうつけるタイトルはひとつしかない。
「無題」
 そうだ、これで行こう。
 いつでも、何者にでもなれるように。まっさらなキャンバスに描き出せるように。
『あなたらしい』
 とあきれる妻。
 なんだよそれ、と笑う子どもたち。
 そして妄想の中の俺は死に逝く。

 さて、自らの死を想像した俺は、何か変わったのだろうか?
 存外リアルに想像できたと思うし、自分を見つめる旅をしたような、不思議な気分になった。
 今目の前にあるのは、『無題のドキュメント』と書かれたまっさらなキャンバス。
 ――後悔の無いように書きたい。
 俺は心の中に芽生えた強い意志と共に、キーボードに指を乗せる。
 初めの書き出しは――

<了>

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