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私たちは多重性のなかを生きてきた〜『日本問答』

◆田中優子、松岡正剛著『日本問答』
出版社:岩波書店
発売時期:2017年11月

法政大学の総長で歴史学者の田中優子と編集工学を提唱する著述家の松岡正剛。二人の碩学が日本の歴史をめぐって問答を交わしました。最近、単行本のみならず新書でも増えてきた対論集のなかでは出色の面白さです。

両者に共通しているのは、日本の特徴を「デュアル」な構造に見出していること。〈天皇/将軍〉〈公家/武家〉〈内/外〉〈ワキ/シテ〉〈神/仏〉〈隠す/顕わす〉……などなど様々な局面におけるデュアルなもの・ことを具体的に例示し日本的な方法として独自に読み解いていきます。

注目すべきは、それらが「二重性」ではあってもけっして二項対立的ではないという点です。しばしば非対称であるし、メビウスの輪のように反転するような場合もあります。
序盤で提示される田中の以下の認識は今日にあってはすぐれて含蓄に富むものではないでしょうか。

……私は、日本列島がそれほど閉じているとは思っていなくて、つねに異民族は来ていたと思う。むしろ異民族、異文化に早くから慣れていたし、必要としていた。なぜならそれこそデュアルの根源だから。異質なもの、対立するもの、多様性があって、初めて元気になる文化なんです。(p31)

とりわけ田中が繰り返し強調するのは江戸時代の鎖国政策に対する偏見への異議です。鎖国なる用語が幕府の公式文書にまったく出てこないことはたびたび指摘されてきたように、「徳川時代は鎖国で閉じていたというのはまちがいで、じつは内のなかに外を入れ込み、内を広げようとしていた時代」との認識を示しているのです。「グローバル化とは、江戸時代にあっては、世界をいったん呑み込んで自らの変化によって世界に対応することでした」。

松岡が権力の二元性・多元性を「日本独特のリベラルアーツのようなもの」とみなしているのは、そうした歴史観に対する松岡的な応答でもあるでしょう。持論である〈ウツ=ウツロイ=ウツツ〉仮説もまたデュアルな日本のあり方を捉えようとした認識方法に違いありません。
また田中が随所で言及している「やつし」という江戸時代の人々によくみられた特性は日本文化の多様性を個人に見出すもので、本書のキーワードの一つとなっています。

日本社会を循環性の観点からとらえるのもきわめて示唆的です。とりわけ華厳経に由来する「融通無碍」の循環経済論を松岡が語るくだりは勉強になりました。松岡によれば、店や市といってもたんなる流通ではなく、すべて「融通」だったのかもしれないというのです。

融通というのは仏教の言葉で、華厳経からきています。華厳経の世界観というのは「重々帝網」、つまり帝釈天の網の目が細かくなって、それらに一個一個パールのような球体がついていて、お互いがお互いを輝きあって映しあっている、だから一個のものは世界をすべて映し出しているというものです。そういうものがつながっている世界のことを「融通無碍」というふうに言う。(p243)

私たちが現在も日常会話で「お金を融通する」とか「融通しあう」というふうに使っていることの背景には、そういう行為や関係性の一つひとつが社会全体をくまなく反映しているという考えがあったからというのが松岡の考え方です。そのような融通無碍的な相互性や循環性は日本では他の領域でも多くみられるというのは田中も共有している認識でしょう。

本書の歴史観や日本観に触れると、今、日本社会で蔓延っている排外主義的な動きや政治空間での権力一元化は、日本の歴史や伝統からは逸脱しているように感じられてなりません。そのような傾向を推進している人たちがしばしば日本の歴史や伝統を歪曲した形で力説するのは笑止千万です。

一方で日本人はみずからの歴史や民族性を島国根性や閉鎖性という言葉でしばしば自己批判的に語ってもきました。が、二人の対話をとおして日本社会が蓄積してきた歴史の重層性をこれまで以上に肯定的に捉えることも可能ではないかとの思いを強くしました。もちろんそれは昨今叫ばれている夜郎自大な「日本スゴイ」言説とは異なった位相のものであることはいうまでもありません。

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